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「賀川豊彦~スラム街の聖人と呼ばれた男~」(その1) |わたしの歴史人物探訪

今回と次回にわたり、「賀川豊彦~スラム街の聖人と呼ばれた男~」をお届けします。                                      (写真提供:社会福祉法人 賀川記念館)

新川地区

神戸・布引の滝から流れ落ちた水流が満々と水を湛えて大阪湾神戸港へと注ぐ川は、古より生田川と呼ばれ親しまれていました。

賀川豊彦

明治初期、生田川の西側には外国人居留地が設けられ、居留地の外国人からは、「生田川氾濫による水害を防止するために川堤を強固なものにしてほしい」との要望が明治政府に何度も出されていました。政府は現地検分の上、堤防の修築工事には多額の費用が必要であり、生田川の付け替えの方が居留地への水害防止には効果的であると判断しました。1871(明治4)年4月に着工し、6月に付け替え工事は完成しました。旧生田川跡地は現在、フラワーロードと呼ばれ、神戸の幹線道路として多くの方に親しまれています。

一方、新しく付け替えられた「新生田川」流域には、さまざまな階層の人たちが移住してきました。もともと市の東端であり、神戸の郊外という位置でもあって不便であったことなどから、貧乏で行く所のない人や失業者、寡婦、身体障がい者、高齢者、身寄りのない人などが移住者の多くを占めました。そしてそれとともに、彼らが住みやすい条件が自然に備えられ形成されていきました。それは、居住者が多くなることに応じて安普請の長屋が建てられたこと。また、他で売れなくなった品物でもここに持ってくれば、安く投げ売りすることができたこと。さらに、どんなみすぼらしい風采でもお互い様で、恥にならない気安さがあったこと。そして、日雇いの雇い主が手配に寄ってきて、簡単にその日の仕事に就けること、などがあげられます。新生田川地区は「新川」と省略して呼ばれ、そこに住みつく人びとの生活水準は最低というよりどん底でしたから、彼らにとって新川地区ほど暮らしやすい所は他になかったのです。住宅は当時の内務省が不良住宅地区として指定していたほどです。

新川地区の長屋の風景

例えば、建物は棟割り長屋がほとんどで、奥行きは三間(約5.45m)長さは十間とか三十間といったものでした。その奥行き三間の長屋の真中に壁を入れて表と裏に仕切ったのです。横は一間ごとに壁を入れているので、一軒の家の総面積は一坪半。その中に畳を入れて半坪は土間、そして押入れもなければ台所もない造りだったそうです。便所も共同でしたからたいへん不潔で、雨が二~三日降り続けば、たちまちそれが溢れてきて、鼻をつままないと表を歩けないという町だったのです。その新川で生活に困った人たちを救いたいと移り住んだのは、ひとりの青年でした。名は賀川豊彦。神戸神学校に在籍する21歳の学生でした。日曜礼拝や路傍説教などをしながら、病人の看病や困窮者の世話をしたのです。当時まだ学生であった彼は煙突掃除を請け負い、それで得た労働賃金を救済金として活動資金に充てたのです。

賀川豊彦、その生い立ち

賀川豊彦は、1888(明治21)年、神戸で海運業を営む賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれました。4歳のとき、相次いで両親を亡くし、徳島にあった賀川本家に引き取られました。徳島では、血のつながらない父の本妻に育てられますが、正妻の子ではなかったため、周囲から「妾の子」などと陰口を言われるなど、寂しい少年期を過ごしました。 1900(明治33)年、旧制徳島中学に進学し、英語を学ぶために教会に通ううちに、アメリカ人のローガン宣教師とマイヤース宣教師に出会い、大きな影響を受けました。キリスト教の教えに興味を惹かれるようになったのです。                                                  1903(明治36)年、父の海運業を継いだ兄が事業に失敗して賀川家は破産、そして翌年兄が死亡します。こうした窮境にあって、賀川はキリスト教の教えに導かれて入信しました。 17歳で伝道者を志した賀川は、1905(明治38)年、東京の明治学院高等部神学予科に入学します。卒業後の1907(明治40)年には新設の神戸神学校に入学しました。この頃、賀川は重度の肺結核を患い、入院先で医師から死の宣告を受けています。療養生活を経て、結核の死の淵から生還できた賀川は、「イエスの教えを人びとに広めること」こそが自らに与えられた使命であるとして、伝道と救済の拠点とすべく新川のスラム街に移り住んだのでした。

新川での活躍

1909(明治42)年12月24日クリスマスイブの日、賀川豊彦は荷車に布団と僅かばかりの衣類を積んで新川に引っ越してきました。賀川には、肺病を患った後の健康状態も芳しくなく、「どうせ死ぬのなら貧しい人びとの間で」という思いと、神が彼に与えた使命「貧民問題の中でイエスの精神を発揮してみたい」という思いがあったのです。前年の暮れに殺人があったため、幽霊が出ると噂され誰も借り手のない長屋の一軒を月2円の家賃で借り、スラム街での伝道を始めました。                                                               朝5時から日曜礼拝を行い、礼拝が終わると新川の路地から路地へと、讃美歌を歌いながら巡回しました。巡回から帰ると次は日曜学校です。新川の子どもたちを集めて讃美歌を歌ったり、聖書を読んだりしました。夜は夜で、路傍説教に出かけました。路地の四つ辻に立って、説教をするのです。それが終わると、帰って伝道集会を行いました。これらは狭い長屋を教会として利用して行っていました。伝道活動も初めのうちは新川の誰も見向きもしなかったようですが、続けて行ううちにヤジられたり、「アーメン、ソーメン」などと冷やかす人たちも次第に増えていきました。また、賀川は巡回の際に見つけた、新川で行き倒れになっている人を自分の家に連れてきて面倒をみたりしていました。食事の世話をしたり、病気やけがの手当てを行ったりもしていました。スラム街の実情は予想以上にひどいものでした。日露戦争後の不景気の波は、新川にも押し寄せていました。その波の一つは「貰い子殺し」の頻発でした。養育費付きで赤ん坊を貰い受け、栄養失調で死なせてしまうのです。新川の中には仲介人までいたそうです。貰い手の初めの人は、衣類10枚に金参拾円で引き受けたとしても、仲介人を介して次には衣類5枚と金弐拾円になり、また次には衣類3枚と金壱拾円というふうに、ひとりの嬰児が4人~5人と貰い受けされていき、とうとう栄養失調で亡くなってしまうということが起きていました。賀川は、見るに見かねてそうした嬰児のひとりを引き取ったこともありました。                                                                                          賀川を中心とする新川での活動は救霊団と呼ばれ、近隣の町工場などにも「説教に来て下さい」と呼ばれるようになりました。この頃になると、関西学院の神学生たちがボランティアで路傍説教や日曜学校の応援に来るようになりました。                                                                                賀川が説教に赴く印刷所に、工場で働く女工たちの監督をしている芝ハルという女性がいました。賀川の説教を聞き、夜の集会に参加するうちに、救霊団の活動に共鳴し、次第に活動を手伝うようになって、1913(大正2)年、賀川とハルは結婚しました。ハルは、結婚後も献身的に救霊団活動を手伝い、新川でトラホームに感染して右目を失明した後もそれは続けられました。賀川豊彦が人びとの魂の救済を目指して新川に居住して4年半が過ぎても、新川の人びとの困窮は少しも良くはなりませんでした。新川では、それほど貧乏にあえぎ病苦に蝕まれている人が多かったのです。当時、新川は7千5百人の人口を数えていました。その多くが、沖仲士、日雇い、土工、職工、手伝いなど低賃金の職に就いていたのです。亭主が仕事に出た後、屑拾いに出かける夫人が250人ほどもいたといいます。病気やけがでもすれば収入はなく、医者にもかかれなくなります。そんな人たちを援けることを通じて、賀川は「貧民心理の研究」という著作を著わしました。

さらに、新川を改善し住民の生活を改善するには、                                                        ①住宅の改良                                                                                       ②無料診療所の開設                                                                                    ③無料職業紹介事業の開設                                                                                 ④低利の金融機関の設置                                                                                  ⑤保育所・児童館の設置                                                                                   が不可欠であると学んだのです。

(次号 特集 歴史人物探訪「賀川豊彦~スラム街の聖人と呼ばれた男~」(その2)に続く。)

(2026/02/05)