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前回に引き続き、「賀川豊彦~スラム街の聖人と呼ばれた男~」(その2)をお届けします。
(写真提供:社会福祉法人 賀川記念館)
アメリカへの留学
1914(大正3)年夏、賀川はキリスト教の勉強と新川を改善する資金を得るためアメリカ・ニュージャージー州のプリンストン神学校ならびにプリンストン大学に留学しました。同時期、妻ハルも神学を深めようと共立女子神学校に入学しました。賀川の渡米前「イエス団」と改名した救霊団は賀川の意志を継ぎ、救済活動を続けました。しかしながら、アメリカの賀川からの手紙には、「日本からは寄付金を求めてやってくる個人や団体がとても多く、しかもその評判は芳しいものではないのです。」と書かれ、思うように募金活動ができない様子がうかがわれました。また、勉強の方も、「プリンストンでの神学の勉強は、日本で勉強した以上の新しいものはない。」とありました。プリンストン神学校ならびにプリンストン大学での2年にわたる勉学を終え、ニューヨークを訪ねたある日、賀川は「パンを与えよ」「仕事を与えよ」と書かれたプラカードを掲げて整然と行進する数万人の労働者のデモを目の当たりにしました。この秩序ある社会活動に、賀川は大きな衝撃を覚えました。1917(大正6)年、アメリカから帰国した賀川は、共立女子神学校を卒業した妻ハルと、新川に無料診療所を開設し、貧窮者の救済にあたりました。
社会運動への転換
献身的な救済活動を続けながら、賀川は「個々の救済では問題は解決しない。根本的な解決には社会の仕組みを治すことが肝要だ。」と、「救貧」から「防貧」へと活動の方向性を転換しました。港町神戸には元来港湾労働者が多く、負傷や病気によって収入が不安定になり、生活が放漫になって新川に堕ちてくるというパターンの人たちを賀川は毎日のように見ていました。賀川は、ニューヨークで目にした労働者自らによる生活改善のための社会運動が、日本でも必要であると考えたのです。
1920(大正9)年、第一次世界大戦後の不況のあおりを受けて失業者が増え、仕事はあっても低賃金かつ長時間労働を強いられる労働者が巷には溢れていました。追い打ちをかけるように物価が高騰し、人びとの生活は日をおって苦しくなる一方でした。賀川は、生活の安定が必要と考え、生活者が相互に助け合う消費協同組合「神戸購買組合」「灘購買組合」の創設に尽力しました。この購買組合は、現在「生活協同組合・コープこうべ」として、多くの消費者に利用されています。また、講演活動や執筆活動にも精力的に取り組んできた賀川は、この年自伝的小説「死線を越えて」を発表。1年で100万部を超えるという大ベストセラーとなりました。
1921(大正10)年、神戸の三菱造船所・川崎造船所で労働争議が起きると、賀川は3万5000人の労働者を指導して、日本初の街頭デモを指揮しました。賀川の思想は、労働問題はあくまで交渉によってのみ労働者の解放を図ることができるというものでした。しかし、この争議は、県知事が軍隊の出動を要請し、警察隊との衝突を招くこととなったのです。賀川を含む200人近くのデモ参加者が逮捕されることとなりました。争議は敗北に終わり、次第に左傾化する関西の労働運動から賀川は身を引くようになりました。
1922(大正11)年、賀川は日本農民組合を組織し、本格的に農民運動に取り組みました。全国を巡回して講演する賀川の活動もあって、組合は急速に発展し、3年後の1925(大正14)年には組合員数は7万人を超えました。しかし、組織が拡大していくにつれて急進的な組合員がイニシアティブを発揮するようになり、賀川は農民運動からも身を引かざるを得なくなりました。
1923(大正12)年、東京を壊滅的な大震災が襲いました。賀川は直ちに東京に駆けつけ、現在のボランティア活動の先駆けともいうべき被災者救援活動に専従しました。新川での救霊団活動の経験が役に立ったのです。賀川はまず、神戸から同行した医師や看護師とともに、無料診療所を開設して、病人やけが人の救済にあたりました。東京での救援活動は広がりを見せ、医療、保育、給食、金融等セツルメント事業(注)として展開しました。同時に、賀川は東京に居を移し、15年続いた新川での救貧活動はイエス団が継ぐこととなりました。
(注:セツルメント事業・・・支援者が生活困窮地域に定住し、地域住民と交流を保ちながら物質的、精神的救済を実践していく事業)
神の国運動
1924(大正13)年、全アメリカ大学連盟に招かれ、アメリカ各地で講演活動を行いました。その後、ヨーロッパ各国を巡礼しながら、伝道や講演をしてまわったことで、賀川の名は世界に知られることとなりました。1926(大正15)年、帰国した賀川は、東京学生消費組合を設立しました。
1927(昭和2)年には、賀川は中華基督教協進会の依頼を受けて、上海にて講演活動を行いました。日本国内だけでなく、アジア各国でも伝道・布教のための講演を行っていたのです。
こうした活動の中で、賀川は、「今日の日本において、最も私を悲しましめることは、社会的にも、個人的にも、暮らしむきが行き詰って居ると云うことである。」と、人びとの生活が少しも改善されていないことを嘆いたのです。労働運動も分裂、農民運動も分裂し、この国を救うためには一定の力が必要であり、賀川は、教派を超えて大挙して伝道にあたるべきだと主張しました。農民伝道、労働者伝道、漁村伝道、坑夫伝道等の方策を提案。自ら全国を飛び回りました。1928(昭和3)年夏から、岐阜~飛騨~信州~九州~北海道~北陸~中国~満州~東北と東奔西走して、神の国運動を説いて廻ったのです。
「我国には今日二百五十万の肺病患者がある、また一万五千の癩(らい)病患者がある。日本にはなほ五割二分の農民があり、その七割は小作人である。彼らは雨に困り日照に困る。十七万七千からある醜業婦(注:娼婦)の悲惨はいふまでもない。これらの解放は誰がするか。」
賀川の神の国運動の中心となるテーマは、人びとの精神的そして貧困からの解放でした。賀川は、新川で見た貧しさゆえの心の囚われや衣食住に事欠く生活をおくる人びとを忘れてはいなかったのです。
太平洋戦争と戦後
非戦・平和論者の賀川は、第一次世界大戦後に反戦・世界平和を主張し、1928(昭和3)年全国非戦同盟を結成しました。そのため当局から危険人物とみなされ、1940(昭和15)年に憲兵隊に拘引され留置されました。
その後、日本の中国への侵略が泥沼化していた頃、「日本キリスト教平和使節団」の一員として渡米。非戦のために尽力しました。太平洋戦争が勃発すると、ふたたび賀川は憲兵隊本部での厳しい取り調べを受け、非戦・平和論からの転向を強要されました。そして、天皇への崇敬、米英への非難、日本を正当化する文章などを発表したのです。
1945(昭和20)年敗戦直後の8月26日、賀川は東久邇宮首相に官邸に招かれて政府への協力を要請され、内閣参与の要職に就きました。また、厚生省顧問、議会制度審議会委員を務め、日本協同組合同盟を組織して会長に就任しました。さらに、「世界連邦の創造」を唱えて、雑誌「世界国家」を発刊して国際平和協会を設立するほか、日本社会党結成の発起人になったりと、この年は多忙を極めました。翌1946(昭和21)年、賀川は貴族院議員に勅選されましたが、GHQにより戦時中の翼賛的な言論を指摘され、登院することはありませんでした。
そして、1952(昭和27)年には、広島で開かれた世界連邦アジア会議の議長を務め、1954(昭和29)年、世界連邦世界運動の副会長に選ばれました。
1959(昭和34)年、賀川は、四国へ伝道に向かう途中で病に斃れ、翌1960(昭和35)年帰らぬ人となったのです。
おわりに
新川での救貧活動から労働者を率いての労働組合運動や小作農を救済するための農民組合運動、貧窮にあえぐ消費者を共助する協同組合運動、そして神の国運動や世界平和を願っての世界連邦運動など、賀川の活動はあらゆる方面にわたっています。また、賀川は作家としても生涯で400冊を超える著作を著わしました。中には100万部を超える大ベストセラーもありました。1947(昭和22)年と1948(昭和23)年にはノーベル文学賞の候補となり、1954(昭和29)年からは3年連続してノーベル平和賞の候補者としても推薦されています。その偉大な功績を見るとき、ひとりの人間の行動力とその影響力に、ただただ敬服の念を禁じ得ません。
最後に、大宅壮一(注:ジャーナリスト、ノンフィクション作家)の賀川豊彦への追悼文の一部をご紹介して稿を終えようと思います。
大宅壮一『噫々(ああ)賀川豊彦先生』
「大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう」
(「スラム街」「癩病」「醜業婦」などの言葉は差別的に使われきた経緯がありますが、本稿では当時の状況をありのまま伝えるために、出典の通り使用させていただきました)
(2026/02/26)