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父の遺した「医学」を追って… シーボルト イネ |わたしの歴史人物探訪

◇はじめに

司馬遼太郎の小説「花神(かしん)」の主人公は江戸時代最末期、忽然と歴史の表舞台に現れて倒幕戦を鮮やかに仕上げ、近代日本陸軍の青写真を引いたところで暗殺された大村益次郎。
今回取り上げる「シーボルト(楠本)イネ」は、この「花神」の準主役だ。
司馬さんは常に、登場人物とその背景を恐ろしいほど綿密に調べ上げて筆を執った。
人と歴史をどう捉えて描くかは作家の自由だが、史的事実を偽り、あるいは誤れば歴史小説は成り立たないからだ。
実質的な陸軍大臣にまで登り詰めた彼との交流を中心に、イネの足跡を小説「花神」の叙述や故郷、長崎の史跡も紹介しながら辿ってみよう。

◇イネ誕生

イネの父、ドイツ人シーボルトは豊かな教育環境の中で動植物学を学び、医学博士号も修めた秀才だった。
「出島」からの報告書に接して日本に興味を抱いていた彼はオランダ領インドネシアで軍医を勤めて認められ、1822年27才の若さでオランダ商館医の職を得た。
江戸期の日本は長崎の出島を通してのみ、針の穴から覗くように西欧世界の情報を得ていたが、1720年のキリスト教関係を除くオランダ書籍の輸入解禁はその穴を少し広げていた。
医学をはじめ西欧の科学技術を求め、志を抱いて長崎へやってきた若者たちへのシーボルトの講義は懇切、かつとびきり上質なもので、その学識の高さと人となりを評価した長崎奉行所はやがて出島外での診療と教授を例外的に許可した。
西欧の小国オランダは、当時ナポレオンからなどの重なる占領を漸く脱していたが国家財政は苦しく、収入増の一策を利益率の高い日本との貿易拡大に求めた。
日本の風土、自然、歴史、社会状況総てを調査し見直して振興の方途を探ろうとしたのだ。
シーボルトが生徒たちをこよなく愛した心暖かき教師だったとしても、彼の行為はこの目的に添ったものだったからこそ、オランダ商館長がそれを許したといえよう。
またたくまに名医の評判広まる彼は、3㎞ほど離れた「鳴滝」に民家を購入して50人からの生徒たちを住まわせ、週一、二度出島から授業に通った。
やがて瀧(たき)という名の美しい女性を愛し、1827年「イネ」が誕生した。
しかし「シーボルト事件」が起こる。
シーボルトは弟子たちも含めあらゆる方面から日本に関する資料を収集していたが、それらの中に日本地図をはじめ、国外持ち出しを禁じられた品々まで多く含まれているのが露見したのだ。
長い取り調べの結果は永久国外追放処分だった。
イネ2才の出来事だ。
瀧を心から愛し、イネの行く末を案じるシーボルトはできる限りの金品を二人に残し、教え子たちの何人かに母子の将来を託して日本を去る。
多大な学殖を惜しみなく授けてくれただけでなく、禁制品の入手経路を厳しく問われても累が及ばぬよう口をつぐみ通した彼に深く感謝し、敬愛する門弟たちの多くはその恩義に報いる決心をした。
オランダ人(実はドイツ人だが)を父と生まれたイネに街の人びとの視線はたとえ冷たくとも、彼らは大恩人からの大切な預かりもののように彼女を見守ったのだ。
父の記憶を何も持たないながらもそうした中で育つ利発で勝ち気なイネには、長じるに従って「医業」を継ぎたいという思いが膨らんでいった。
そんな彼女を14才で伊予、宇和島に引き取ったシーボルトの一番弟子、外科医の二宮敬作は、18才になって「産科」専攻を願う彼女の教育を岡山の同門、石井宗謙に依頼した。
が7年後、石井からの性的暴行で妊娠したイネは長崎の母の元で高子を出産する。
暴行の結果だったのは、彼女が以後決して石井に会おうとしなかったことで察せられる
が、この事態を知って自らの落ち度と悔やむ二宮は再びイネを宇和島に呼び寄せ、勉学を続けさせた。

◇村田蔵六(大村益二郎)との出会い

大村益二郎(この名は官軍指揮官となって以降のもの、本稿は「花神」に従って「蔵六」とする)は長州藩の村医者の子に生まれた。
蔵六の頭脳明晰さを知った父の勧めで実家のほど近く梅田幽斉に学ぶが、21才で「西洋医学」を志し大阪へ出る。
『医師がこの世に存在している意義は、ひとすじに他人のためであり、自分自身のためではない。これが、この本業の本旨である。ただおのれを捨てて人を救わんことをのみ希(ねが)うべし』を掲げる緒方洪庵の、まさに『全国第一の蘭学塾』「適塾」に入門したのだ。
才能を認められ塾頭にまで進むが、父の願いに従って故郷、鋳銭司(すせんじ)で医業を継ぎ、妻を娶った。
しかし黒船来航以降、西洋技術修得を急ぐ日本の社会は、蔵六のその暮らしを長くは許さなかった。
開明的な宇和島藩は優秀な蘭学者の人選を二宮敬作に依頼し、緒方洪庵の推薦で招聘を受けた蔵六が着任したのは1853年。
「花神」では、イネと蔵六は岡山で知り合ったとされているが、それはさておきイネの宇和島再来は1854年この地を離れるのは1858年で、蔵六が宇和島から江戸へと去るのが1856年だから二人はこの地に約2年間ごく近しく、あるいはあるひと時、ひとつ屋根の下に暮らしたのだと司馬さんは書いている。
蘭語の翻訳にもすばらしい才能をみせる2才年上の蔵六を師として男性として、イネは大いに慕ったのだと想像されてよいではないか。

◇活躍するイネと蔵六

1855年の「日蘭和平条約」によって追放を解かれたシーボルトが再来日するとの情報に加え、娘を何時までも母に預けておくわけにもゆかなかったろう。
イネと二宮は、後に娘の夫となる二宮の甥で医師の三瀬周三と共に長崎へ戻り、母が「銅座」町で営む油屋で診療を開始した。
名医、二宮のもとには多くの学生が集まったという。
1859年再会を果たしたシーボルトはイネが優れた医者に成長していることを喜び、更なる習学を望む彼女に助力したが、30年の歳月は当然ながら父と母娘の境遇を著しく変えてしまっていて、父とはしだいに疎遠になったようだ。
シーボルトは「鳴滝」の塾跡を買い戻して医療や教育に再び注力し、幕府の外交政治顧問を勤めたが3年ほどで帰国し1866年、69才でミュンヘンに没した。
医師として名の上がるイネは藩主の正室からの診療依頼もあり、前年長崎で亡くなった二宮敬作の分骨もあって、10才ばかりに成長した高子を伴い宇和島へと向かった。
信任は厚く、やがて娘を藩主夫人の側近の形で城に引き取られた彼女は、外国公・商館が立ち並び、欧米各国駐在員の溢れ始めた横浜で医院を開業する。
イネは未知の土地への「物怖じ」など持ち合わせる女性でなかったようだ。
その頃、蔵六は宇和島藩抱え身分のまま江戸で塾を開き「幕府講武所」でも西洋兵学を教えていたから、今でいえば「東京大学教授」のような地位にあったが、近々訪れよう長州の大危機に備えて、桂小五郎は彼の藩出仕を画策した。
が、粗末な処遇の約束しか取り付けられなかった桂に、蔵六は『拙者は長州へ参る。参ると決めた以上、処遇などはご都合しだいでよろしい』と答える。
司馬さんはいう、この稀代の英才にして合理主義者は一方「自らの懐勘定をしない、情念の人」で蔵六にとって生まれ育った長州は特別な、いや「絶対」の存在だったと。
イネはポンペ、ボードインなどの医師たちから指導を受ける機会が多くオランダ語会話ができたが、蔵六は生涯話せなかった。
村医者の子として西洋医学を身につけようとした蔵六にとって学習とは、蘭語の医学書をひたすらに読んで「日本語で理解すること」だった。
しかし宇和島藩で求められたのが蒸気船と砲台の製造だったことからはじまって、数学、物理学、兵学などなどあらゆる分野の蘭語書籍を読破し、翻訳し理解するに至った蔵六は、結果「時代」の要求する、卓抜した「西洋軍事全般の専門家」にも変貌したのだった。
倒幕へと踏み出した長州藩に1866年第2次長州征伐軍が攻め寄せた。
藩境の四ヵ所で戦われたので「四境戦争」とも呼ばれるが「薩長同盟」が成立し、蔵六が求めた最新武器を備え得た長州陸軍は蔵六が翻訳する「西洋兵法」を実践し、幕府が組織した大軍を迎え撃つ。
日本海側「石州(せきしゅう)口」の戦いを直接指揮する蔵六は僅か700名ほどの兵を巧妙に用い、多勢の幕軍を破った。
以後、綱渡りの「戊辰戦争」へと入ってゆく。
江戸の無血開城はなったものの、上野の山に立てこもった「彰義隊」は多くの意味で極めて危険な存在だった。
この状態を長引かせれば分散している反倒幕勢力が一気に集結する恐れは十二分にあった。
江戸の街を焼き尽くす火事や、多くの町民の命を奪う乱戦を避けながらこれを鎮圧する作戦が、総指揮官として着任した蔵六に要求された。
先進的な肥前、佐賀藩が当時多数所有していた「アームストロング砲」は国内で使用されたことは一度もなかったが、その射程距離と砲弾の炸裂力を世界最新の武器情報として蔵六は正確に把握していた。
この砲の利用を柱に、彼が徹底的に理詰めに仕上げた作戦は理の通り進みほぼ半日、上野は陥落する。
その後越後長岡から会津若松、函館五稜郭と戦いは続くが、江戸城から下す蔵六の指示は常に冷静、的確で、彼の予想の内に総て終結したのだった。
1868年9月4日京都、木屋町御池の宿舎で刺客に襲われた蔵六が、法円坂の大阪府医学校病院(現在の大阪医療センター)で死去したのは11月5日だった。
当時、開業医として横浜にあったイネは報せを受けるや駕篭で大阪に下り、外科が専門でないにも拘わらず50日余りを付き添い通し、彼の最期を看取った。
このことからも、独身を通したイネが生涯愛したのは蔵六だったと言いきってよかろう。

◇おわりに

「皓台寺」墓地内にある顕彰碑

遷都後イネは東京、築地で産科医を開業し、その医療技術を評価されて宮内省からも診療依頼されるが1875年に開始された「医術開業試験制度」つまり医師免許の国家試験を、女性には受ける資格さえ与えられなかった。
1884年ようやく女性にも許された時、長崎で産婆を営み58才に達していたイネはもはや受験しようとしなかった。
晩年、東京で娘の家族と同居した後、異母弟ヘンリー・シーボルトのもとで過ごし1903年、76歳で逝去した。
墓は長崎市内の小高い「皓台寺(こうたいじ)」に母、瀧と育ての父といえる師、二宮敬作のそれと並んである。
イネは公許の女性医師とならなかった。
が、まさしく「日本初の女性西洋医学者であり臨床医」だった。
その光栄は、父シーボルトの弟子たちに支えられてのものだった。
でも、まずイネが母子家庭の娘としてまた母としての困難と、外見的にはまったくの西洋女性であった自身に向けられる好奇や忌避のまなざしを克服する、並々ならぬ意思と努力を持ち続けなければ得られなかったことは確かなのだ。
後にその学説は訂正されたようだが、父シーボルトは紫陽花の一種の学名を「オタクサ」とイネの母、瀧からとって付けた。
日本原産は「額紫陽花(がくあじさい)」と呼ばれる種(しゅ)で、手まりのような、色鮮やかに変化する「西洋紫陽花」は品種改良されて逆輸入したものという。
折からこの花の季節、ただ「知的で美しかった女性」とではとても語り足らない「イネ」の人生を、ふと思い浮かんだ京都「詩仙堂」の「額紫陽花」に重ねて偲んでいる。
紫陽花は長崎市の「花」でもある。

☆末尾ながら暑く、雨の降りしきる中、ご案内いただいた「長崎さるく」のガイドさんに感謝します。

 

 

(2013/04/15)