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貧しさを高らかに謳いあげた 林 芙美子 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

日本中に知らない人のない自伝的小説「放浪記」と作者、林芙美子の生涯を紹介して、作品と人となりに迫ってみたい。
舞台劇、放浪記は2009年5月、女優 森光子さんが90歳の誕生日に2000回目の公演を果たしても話題となった。1961年に菊田一夫の手によって戯曲化、芸術座で初演されて以降48年の長きにわたって人気を誇ってきたが、その魅力の源泉はやはり原作にあるのだろう。
放浪記は林芙美子の出世、代表作だが、彼女は多作で「浮雲」「牡蝸」「晩菊」も名品とされる。一度目を通しておきたい。

生い立ち

芙美子の母は、鹿児島の温泉宿の娘だった。行商に訪れていた男の子どもを身篭って出奔し、芙美子は1903年、門司に生まれたが、実父は彼女を認知しなかったようだ。
父は商売に手腕があったものの、遊びが高じて芸者を家に引き込み、許せない母は7歳の芙美子と、同情する店の男とともに夫の元を離れた。
旅商いの義父、母と九州各地を回り、一時は母方の実家に預けられたりもしたようだ。
家計の一端を担って炭鉱町であんぱんを売り、粟おこしの工場で働いた彼女の夢が「成金になること」だったのは頷けよう。
木賃宿を転々とした一家はやがて尾道に。風琴の上手な義父、母とこの町に8年ばかり落ち着いたいきさつを、28歳になった芙美子は「風琴と魚の町」に回想している。
ほとんど通学できなかった彼女も13歳で5年生に編入学して2年後卒業し、文才を認める国語教師の勧めで尾道市立高等女学校に入学した。ここでも良き教師や友人に恵まれ、詩や短歌を詠んで地元の新聞に投稿する。
しかし、一家の暮らし向きが好転するわけもなく、夜は帆布の製造工場に働き、夏休みには神戸へ※女中奉公に出て学費を捻出したのだった。
幼くして父母と行商旅を続けた物怖じしない、早熟で読書家の彼女が、世間ずれした娘に育ったのはいたしかたなかろう。
1922年、卒業した19歳の芙美子は尾道を去り、東京の大学に通う因島出身の恋人と同棲を始める。そして彼女を追うように上京した父母の、肌着を商う屋台の夜店を手伝って以後、めまぐるしく職を変えていった。

「放浪記」の成り立ち

この頃から付け始めた日記の一部を、後に抜き出して発表していったのが小説「放浪記」だ。
翌年卒業した男は結婚話を反古(ほご)に、故郷へ帰ってしまう。未練に怒り、悲しみ、憎しみ、加えて日常的に食事もままならぬ貧困。9月には関東大震災だ。
一時父母とともに尾道、高松へと難を避けるが、翌年、再度単身上京した。
芙美子のそれからの暮らしぶりは「凄まじい」に尽きる。役者や詩人との同棲、別離を繰り返す中で襲いくる日々の極貧。
その中で続く出版社への詩歌や童話の売り込みと古本屋通い。
セルロイドの人形の色塗りをする※女工、酒場で酔客をあしらう※女給が、休憩の合間にチエホフや哲学書まで読みふけるのだから芙美子、ただ者ではない。
そもそも「日記を記す」とはどういうことなのだろう。彼女は日記に、叩きつけ、叫ぶようにいくつもの詩歌を書き付けている。
日記は備忘録でなく、明らかに日々の思いを表現する手段、芙美子は天性の詩人だ。口をついて出る言葉が、そのまま詩歌になり得るのだ。
結婚話が破れなかったらの想像はさておいて、今夜の食事もおぼつかない生活を覚悟で東京に一人住まいを始めるには、彼女の内にただならぬ決心があったからに違いない。彼女が社会の最下層の出身者であることを卑下も萎縮もせずにいられたのは、自らの詩才を恃む強い自負心によるのではないのか。
詩歌を詠んで楽な暮らしが可能な収入など、めったに得られるものでない。芙美子とてそれをよく知っていた。が、この頃の平林たい子など同世代の文人仲問との付き合いを知れば、彼女の文筆力に対して、斯界に一定の評価があったと考えてよさそうだ。
23歳で画学生、手塚緑敏と結婚、この頃から芙美子の詩歌や散文は発表の場を増やしてゆく。
「女人芸術」に連載した放浪記を、当時人気の高かった出版社「改造社」から刊行し、一躍大人気となったのは1930年芙美子27歳の出来事だ。
その年さらに「続放浪記」(第2部)を発表、女流小説家の地位を確実なものにした。
1933年頃から政府の検閲は著しく厳しさを増し、発売禁止を悟る芙美子は第33部を、戦後の1947年になってから連載し始めたのだった。
また、1939年「決定版 放浪記」が出版されるに先立って、芙美子は全面的に文章の修正をおこなった。若き彷徨の日々の赤裸々な心情の吐露はあまりに生々しく、粗野、猥雑に感じられて堪えられなかったのかもしれない。一流作家として、妻として角の取れた表現に手直ししたかった心情は理解できる。
だから、現在流布する放浪記の第1部、2部は初出の改造社版といささか異なっているのだ。
ともあれ、第1、2、3部全体で放浪記とされているものの出所は全て、19歳から24歳まで5年間の日記帳で、記述されている時期は重なり合っていて、時系列的に整理するのは難しいといわれている。
※「女中」「女給」「女工」の表現は差別用語(蔑視的表現)ですが本稿では当時の時代背景を理解するために用いてます。

「放浪記」とは

何冊かの粗末な日記帳を、芙美子は終生夫にさえ読まれぬよう隠し、いつか処分したようで、死後も出てはこなかった。
放浪記の主人公、林芙美子は貧しい暮らしを強く生きる女などと生易しい存在ではない。
読者は親身になって明日の食事を心配するし、男や世間への恨み節に共感し、不毛な男との愛憎に見切りをつけさせたくもなる。酒場でのきわどいやり取りや無謀とも思える旅立ちに不安が募り、ホッとし、危ぶみ、時にまた、ふと微笑んでしまうのだ。
文章を揃えたり整えたりしようとせず、巧まず湧いて出た表現を飾らずに用いることで、心情があるがままに、直に読者に伝わるように仕上がっているのが放浪記の特質と思える。事柄の叙述にいささか欠けていても、読み進めば納得できてゆくのが筆致の不思議な魅力なのだ。

林芙美子とは

「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と放浪記の冒頭に書いた芙美子は旅をこよなく愛した人だった。      
1931年11月、単身シベリア鉄道に飛び乗り、モスクワからロンドンヘと出発した。外国語を少しもしゃべれない人が、その後半年間の多くをパリに過ごした旅は、誰にもできる芸当ではない。
終生、彼女は国内外を飛び回った。
日中戦争が勃発すると、新聞社の特派員として南京、漢口へ派遣され、満州へ戦地慰問に赴きもした。
このことで後に「戦争協力者」の批判も受けたが、それは当たっていないだろう。人一倍の好奇心と旅好きのためさせたものと、了解したい。
恋愛を繰り返しながら東京の底辺で売れない芸術家として交わった男女の多くは、反政府、革新思想の持ち主だった。
しかし、芙美子は足を地につけた現実主義者であって、思想家ではあり得なかった。
作家の田辺聖子さんは文庫本の後書に「無邪気と奸智、謙譲と倣岸が一緒くたになって、あったかいような冷たいような、苦労人のやさしみもあるかと思えば、苦労に堪えてきた人独特の冷酷さも同時に持っている」とその人となりを想像している。なるほどとも思える観察だ。

おわりに

晩年も著作に追われ、取材旅行を多くこなす中で健康を害した。
過労から来る心臓疾患を医師から注意されていたにもかかわらず仕事に打ち込み、1951年6月心臓麻痺で死去した。47歳だった。
芙美子は常に女流作家の第一人者だったし、強烈にそうあり続けようとした。
それは幼少の折から恐ろしき貧しさを強いられた彼女の、心身に染み付き渡った貧困回避欲求がもたらした勤勉さだったというべきか。
実子のなかった芙美子夫妻は生後間もない男の子を養育するが、彼は16歳で事故死した。
彼女の良き伴侶、理解者であった夫の緑敏は1989年に死去した。
芙美子の文業の整理に努め、自らの死期を悟った彼は身辺を整理し、多くを新宿区に遺贈した。
それが今、落合にある「新宿区立林芙美子記念館」だ。2011年は没後60年にあたり、尾道ではイベントがおこなわれた。

(2012/11/28)