シリーズ

動乱の京に咲いた花一輪  幾 松 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

「上木屋町料亭 幾松からの提供 」

今回の主人公は、桂 小五郎(後の木戸孝允)の妻となった芸者幾松(後の松子)。
二人が絶体絶命の危機を脱した小部屋が現存する京都の街には、それという形は留めないまでも、小五郎との出会いや、苦しくも心躍った逢瀬をほうふつさせる往時の面影が、そこかしこに漂っています。
特に鴨川、高瀬川沿いにそれらは多く見られます。
そこで今回は趣向を変え、幾松の生涯のひとこまを、幕末の少々の出来事と史跡とともに紹介しましょう。

出会い

小五郎は長州、毛利藩医の家に生まれたのですが、桂家の養子に入って武士の身分を継ぎました。
松下村塾の塾生ではなかったものの、吉田松陰との交流が若き小五郎の才能を開花させ、磨いたといわれます。
藩費江戸留学の後、留守居役(外交担当官)として29歳の小五郎が赴任した1862年の京は、幕末最大の混乱期を迎える直前にありました。
着任直後、藩論は強硬な「攘夷」に反転し、過激な公卿たちを取り込んで朝廷での長州の勢力は盛んでした。
しかしこのことは、尊王・攘夷だけでなく「討幕」までを視野に入れた浪士たちを増長させて治安は乱れ、京における幕府の権威をさらに失墜させました。
危機感を募らせた幕府は。御所の警備を口実に過激浪士の排斥と反幕雄藩の締め付けを策して「京都守護職」を設置しました。会津藩主が任ぜられて入京したのはこの年の暮れ、会津藩はやがて幕府が組織した「浪士隊(後の新撰組)」も預かり、後しばらく力をふるっていました。
1863年3月、将軍家茂は上洛し、幕府の威厳を取り繕おうとしましたが、攘夷決行を強く迫る朝廷に抗しきれず、5月10日をその期限と心にもない約束をしてしまったのです。
その日が来ると、長州藩は幕府の苦衷を嘲笑うように、関門海峡を通過する外国船に砲弾を浴びせ始めました。
ここからの幕末史は公家や走り回る志士たちの思惑、幕府、雄藩の利害得失、権力争いが複雑に絡んでなんともややこしいものです。
同じ「反幕府の立場」にはあっても長州藩の勢力拡大を危ぶみ、こころよしとしない薩摩藩は、あろうことか親幕、会津と組んで8月「禁門の政変」を成功させました。

「 桂小五郎の像 」

大久保利通の魔術といわれる権謀術策で、朝廷から長州藩に近い公卿達を追放してしまったのです。
一夜にして主役の座を追われた藩士の多くは、7人の公卿を伴って長州へと去らざるを得なくなりました。
長州藩邸は河原町御池、今の「京都ホテルオークラ」にあり、北へ徒歩数分丸太町を越えて川端に寄れば細い路地、当時は花街です。
そこ、三本木の料亭「吉田屋」は小五郎には他藩武士たちとの大切な情報交換、収集の場、主人公幾松は10歳年下でこの店の売れっ子でした。
彼女は越前、小浜藩士の家に生まれたのですが、故あって父は出奔し、生計の助けに吉田屋の養女となって義母、幾松の跡を継いだ二代目芸者でした。
何時しか強く惹かれあう二人。小五郎は金を工面し落籍しますが、酒席での情報を得ようと幾松は芸者を続けます。
新撰組もその存在を示す場を求めていました。
三条通りを河原町から東に入った北側に史跡を記しますが、1864年6月、仰天の倒幕密談情報をつかんだ新撰組は、祇園祭の宵山に出動しました。
10人の隊士が踏み込んだ旅籠(はたご)「池田屋」には、予想をはるかに上回る30人からの志士が集まっていました。
激しい斬り合いの結果は死者10数人に上る惨事となりましたが、他藩との会合で中座していた小五郎は命拾いしました。
京での勢力争いに敗れ、国許では外国船を打ち払い、今また京で多くの人材を失った長州はついに藩ぐるみ正気を失ったかの自殺行為におよびます。
同年7月、朝廷への嘆願書を掲げ、軍勢2千数百が伏見、嵯峨、山崎と三方から京へ攻め上ったのです。
鳥丸通り下長者の「蛤御門」まで迫った一隊も、しかし薩摩、会津を主力とする守備隊に退けられます。
「尊王の尖兵」長州藩も今や朝敵、翌月には不意の砲撃を受け、報復の念に燃える英、米、仏、蘭4力国の連合艦隊に下関の砲台をことごとく打ち砕かれ、陸戦部隊の沿岸上陸をも許してしまいます。
弱り目に祟(たた)り目の長州を、御所への攻撃をとがめた幕府の「第一次長州征伐」が襲ったのです。

危機の二人

京に潜伏し、機をうかがう長州藩士を新撰組は厳しく追及しました。

「隠し廊下(料亭幾松からの提供)」

料理旅館「幾松」は、木屋町通りを御池から上がった東側にあります。
ここは後に木戸別邸となりますが、当時は藩邸の裏、高瀬川を越えて設けられた長州藩控え屋敷で、多く密談に使用されたといわれています。
私たちは取材をお願いし、「上木屋町料亭 幾松」の専務にご案内とお話をいただきました。

「幾松の部屋」が面している鴨川は当時幅も広く、背高く葦が生い茂った川辺からの侵入や、川原へ出た者を取り押さえることはまず無理だったろうといいます。
表通りから玄関まで細く、長い石畳が続き、来訪者に注意していれば、隠し階段を抜け、川原へのがれ出る余裕は持っていました。
万一遅れた場合、裏に大きな石の載った釣り天井が、紐の操作で敵とわが身の上に落ちてくる二段構えの仕掛けでした。

一タ、密会に及ぶ二人、酒を買いに出た幾松を新撰組の目明しが追います。
その夜に限って知らせは遅れ、気配を察した時すでに逃亡の間はありません。
小五郎とて江戸、斎藤弥九郎道場で塾頭まで勤めた使い手、これまでと刀の柄(つか)にかけた手を幾松は押さえます。抜けば死ぬは必定の多勢に無勢、万に一つの生きる道は。

「 幾松の部屋 (料亭 幾松からの提供)」

とっさ、黒塗りの長持ちに小五郎を隠し、それを背に三味線を弾きました。
家捜しを終え、あとはここしかない、長持ちに掛かった近藤の指を撥(ばち)が払う。
「屋敷に踏み込み、ここまでの家捜しで十分な屈辱、その上この長持ちまでとは、中に誰も居なければ、私への詫びに腹切る覚悟で改めていただきましょう」と眦(まなじり)
を決して言い放った。
近藤は確信した。中に小五郎は潜んでいる。しかし幾松がまぶしかった。この女死なすに惜しい。
「すまないことをした」近藤は引き揚げました。
「幾松は瞬時に自分が先に斬られようと決心したのでしょう、愛する小五郎の死を見たくなかったのですよ」とは専務の弁です。
もはや藩邸も危うい。小五郎は今出川通り、加茂大橋近くの河川敷に逃れて乞食に身をやつし、手立てを講じようとしますが、警戒は厳しく身動きが取れません。
幾松は、危険を察した折には実家の母の力を借りてまで小五郎の身辺を世話し、ついに但馬、出石へと脱出させました。
四力国連合艦隊との講和にはこぎつけたものの、幕府が組織した長州征伐軍は広島に小倉にと到着し、殲滅(せんめつ)戦は目前に迫っていました。
窮地の長州藩を救ったのは、皮肉にも憎き薩摩の西郷隆盛でした。この際たたきつぶせと強硬な会津藩などを、長州のけじめは長州につけさせようと説き伏せ、三家老の切腹と指揮官2名の斬首で一応の決着をみたのでした。
今や「俗論党」が主導権を握り生気を失った長州に、藩と幕府のお尋ね者、高杉晋作が帰ってきました。
1865年1月、雪の下関「功山寺」に「奇兵隊」を率いて決起した高杉は、ついに藩論を「倒幕」にまとめあげます。

幾松はその間、京、下関、出石そしてまた京と、ある時は一人で苦しい旅を、ある時は小五郎と二人希望に満ちて行き来したのでした。  翌年1月、京に潜入した小五郎は坂本竜馬の斡旋で薩摩との密約「薩長同盟」を果たし、倒幕は具現していきました。

結ばれた二人

「 幾松の墓 」

幾松は維新後小五郎と正式に結婚し政府高官、参議夫人、木戸松子となりました。
しかし東京へ遷都の後、慣れぬ暮らしに加え夫は多忙を極め、岩倉使節団の副史として二年間外遊もしてしまいました。
帰国後も席の暖まらぬ小五郎は「西南戦争」のさなか、1877年に45歳で亡くなります。 松子は京へ戻り、先述の料理旅館「幾松」で、剃髪して翠香院と号しました。
1886年44歳で没した幾松の墓は、東山「霊山護国神社」に小五郎のそれと並んであります。

おわりに

歴史は、特に幕末、維新のような複雑怪奇な、あるいは力まかせの歴史は、男たちだけが働いてこさえてきたかにみえます。
しかし男たちを心で、時に身をもって支えた優しく、強い幾松のような女たちが、涙を流しながらも、いつも溌溂と生きていたことを忘れてなりません。
「歴史の蔭に女あり」ではない、「歴史」は常に女と男で作ってきました。  幾松が小五郎と身分違いの恋を成就させた幸せ者だったかどうか、私たちが決めたところで何の意味もありません。
ただ幾松には、薄氷を踏む思いで生きた日々、死と背中合わせの京都留守居役、桂小五郎に寄り添い、愛され、愛する男を身を挺して守り過ごした三年ばかりの、あのひと時ひと時こそが、生きる実感と喜びに浸りきれた至福の一刹那ではなかったでしょうか。

(2013/08/01)