シリーズ

平安王朝期を「和歌」に生きた佳人 和泉式部 |わたしの歴史人物探訪

百人一首

はじめに

時代は一気に「中古」へと遡るが、日本文化の原点というべき「和歌」に輝かしい足跡を残した「和泉式部」を取り上げる。
彼女がどのような女性でどう生きたか、残された種々の「家集」「和歌集」以外に史料はごく少ない。
そこで、希有の才能を駆使して詠み出された「歌」のいくつかを、私の想像もお許し願って解説しながら、少々探ってみよう。

生い立ち

西暦978年頃、受領(ずりょう)級の貴族、大江雅致(おおえまさむね)を父に生まれた彼女は18、9歳で父の部下であったかと思われる橘道貞(たちばなみちさだ)と
結婚し、女子を出産する。  夫が国司「和泉守」に任じられたことから後に「和泉式部」と呼ばれるが、やがて不仲になったようだ。

1 「冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき 遙かに照らせ山の端(は)の月」
「播磨(はりま)の聖(ひじり)のもとに」の詞書(ことばがき)が添えられた、彼女を知る上で重要な歌だ。
「姫路」の北「書写山(しょしゃざん)円教寺(えんきょうじ)」は966年、性空上人(しょうくうしょうにん)が開いた天台宗の名刹で、貴族たちの篤い信仰を集めていた。 仏教上のつながり「結縁(けちえん)」を求めたこの歌は、彼女が20歳代かとも思われる頃成立した第3番目の勅撰和歌集「拾遺集(しゅういしゅう)」に所収されている。
年少の人の作品が勅撰集に採録されるのは珍しいから、和泉の「歌人」としての評判は若くして既に高かったと想像される。 経典の一節を引いて「煩悩の暗闇からまた悩みの闇へと迷いこみそうな私を上人さま、山の端に昇る月のように照らしていてください」

恋に生きる

夫と別れ「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮らす」和泉の元に、先の冷泉(れいぜい)天皇の皇子「師(そち)の宮」と呼ばれる敦道(あつみち)親王の使いとして、以前は親王の亡くなった兄君、為尊(ためたか)に仕えていた小舎人童(ことねりわらわ)が訪れる場面から「和泉式部日記」は書き出されている。
橘の一枝を携え「どうご覧になられます?」と親王からの言づて。 時は4月「橘」には亡き人の声を運ぶという「ほととぎす」がつきものだ。
親王に言葉だけのお返しは失礼と一首。

「貴船神社」の境内にある歌碑

2 「薫る香(か)によそふるよりはほととぎす 聞かばや同じ声やしたると」
「橘の香りにことよせられるより『ほととぎす』=貴男が兄君と同じお声か聞きたいわ」学者の問でも、あくまで身分の高い人に対する丁重な挨拶、あるいは積極的に宮の来訪を誘ったもの、と歌への見方は分かれている。
が、意図的か否かは別として「聞かばや」「か」「ば」「や」と母音「ア」の連用が健康的な明るさを醸し出し、受け手の次なる能動を容易にしているのは確かだ。
宮の返しは「同じ枝(え)に泣きつつおりしほととぎす 声はかわらぬものとしらなむ」こうして敦道親王との交際が始まる。
当時、冷泉天皇に繋がる宮たちは皇位の継承から外れつつあったが「東宮」(異腹の兄君) は病弱で、皇太子の可能性もある敦道との身分違いの恋はままならなかった。
歌の往来(ゆきき)はあっても思うに任せぬ逢瀬に親王は苛立ち、不安の募る和泉は瀬田の「石山寺」に篭ったりするが、2人の愛は急速に深まってゆく。
寄り添って暮らすには「宮仕え」、親王の使用人の立場しかなかったけれど、それを実質的な結婚と確信した和泉は心を決める。
冷泉上皇の「南院」で彼女は愛され、作歌の場も多く持ち、子も出産するが、穏やかな日々は3年ほどの後、親王の死で終わりを告げた。
屋敷を去って喪に服す和泉は手元に残った宮との手紙と贈答歌をもとに、さきの「日記」を記し「師の宮挽歌」と呼ばれる歌の数々を詠んだ。

3 「君とまたみるめ生(お)いせば四方(よも)の海の 底の限りはかづきみてまし」
「みるめ」は「亡き人と会う目」と「海草の一種」の掛詞、「かづく」は潜るの意。
「宮にもう一度お会いできる『みるめ』が生えているのなら どこの海の底の底でも潜って探してみたい」
「海の底にも潜ってみせる」とはおよそ貴族には思い浮かばない発想で、衝撃と賞賛をもって迎えられただろう。

檜舞台へ

親王の一周忌が過ぎた頃、愛娘、一条天皇の中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)に男子が誕生し「外戚(がいせき)」に一歩近づいた藤原道長は歌の第一人者、和泉を娘の後宮へと誘(いざな)つた。
そこでは若き后の家庭教師「紫式部」が「源氏物語」を既に「若紫」まで書き上げていたとも伝わっている。
華麗なる歌の詠み手、亡き親王との噂に満ちた恋の主は宮中の誰からもの熱い眼差しで迎えられ、水を得た魚、和泉の歌作は冴え渡る。

4 「白波のよるにはなびくなびき藻の なびかじと思うわれならなくに」
「やむごとなき(身分の高い)男に」の詞書を持つ、お誘いへの返言(かえりごと)。
「波が寄せれば藻はなびく、藻のような私、貴男になびかないでおこうと思っているわけではないのよ」が平明な訳だろう。
この時代、歌の本意を正確に把握できなくて貴族は務まらない、どう受け取ればよいのか。
波とともに藻がなびくのは「自然の理」それなのに下の句は「人の心」藻ならばなびかないでおこうと考えるはずはない。
「藻のように自然になびければよいのですけど」と、和泉とてあからさまな拒否は憚れる貴人への婉曲で爽やかなこのお断りを、男は苦笑交じりで仲間たちに披露しただろう。

再婚と娘の死

いつの頃か道貞との子「小式部内侍(こしきぶのないし)」が出仕し、道長の直属の部下、藤原保昌と再婚した後も暫く、娘と共に彰子の元で過ごしたようだ。
やがて「丹後守」に任じられた夫に従って宮津へ下ったから「天橋立」周辺にも和泉にまつわる言い伝えは多く残されている。
さて母が去った局(つぼね)の歌会、詠み手に選ばれた才媛の誉れ高い娘「小式部」を男がからかう。 歌は代作だったのだろうとばかり「心配ですね、お母さんからの手紙は届きましたか」と。
去ろうとする男の袖を引き留め「大江山いく野の道の遠ければ まだ文も見ず天橋立」と詠みかけた。
「丹後の地は遠く、母、和泉はまだ着いていないでしょうから、文など見るわけもありません」この歌は「百人一首」に採られ、人口に膾炙(かいしゃ)している。 しかし、貴公子に愛された小式部は産後の肥立ちの「はやり病」で亡くなる。 和泉の悲嘆は激しく、娘の死を悼む歌がまた多く残された。

5 「留め置きて誰をあはれと思ひけん 子はまさるらん子はまさりけり」
「生まれたばかりのこの子と母の私をこの世に留め置いて亡くなった娘、あの世であの子は子と母、どちらをより「あはれ」と思っているのだろう、この子に違いないな、子に違いないもの」和泉とてかつて母を野辺に送った、が今、子を失った悲しみは比べものにならない。
「らん」と推量して続く「子はまさりけり」の断定は壮絶、張りさけんばかりの娘への思いを一気に吐き出した。
「技巧」の枠を遙かに超えた「心の叫び」は、時を経てなお人の胸を打つ。

おわりに

京都「貴船(きぶね)」の「蛍岩(ほたるいわ)」は「男に忘れられた和泉が貴船の社へ参り」川に飛ぶ蛍を見た場所と言い伝えられている。

6 「もの思えば沢の蛍もわが身より あくがれ出(いづ)る魂(たま)かとぞ見る」
「あくがれる」は離れるの意「物思いにふけり我を忘れて見る蛍火は、まるで自分の心から抜け出ていった私の魂のよう」と。
極度の集中からの弛緩に、巧まず湧き出た透明なこの響きは只ものでないから「感じ入った『貴船明神』が返しの歌を贈って和泉を慰めた」と後の人は話を拵えた。
才女が輩出し、摂関政治が頂点を極めていったこの時代、紫式部や清少納言が散文、随筆に取り組んだのに対し和泉は「和歌」に生きた。
他人との会話として成り立つ和歌の多くには、詠み手の人柄、性格がより濃く表れるといえるから、それ故余人の追随を許さない、格段の輝きを放つ彼女の歌群は「恋多き情熱の女」の形容を和泉の上に冠してきた。
そしてそれらは後世の人びとをも惹きつけ、読み解いて女性像を「こう」と確立したい衝動に駆り立ててきた。
私とて和泉の歌の虜となってもう随分以前、東京勤務をしていた休日によく神保町の古本屋を訪ね歩いた。
やっと見つけた書籍はうん十万の値で、手の出しようがなかったりした。
ある書物に「和泉式部とは、苦労を重ねこんな人と思い描き得た瞬間、必ずまた最初から作業をやり直さずにいられなくさせる不思議で、魅力的な女性だ」とあった。
この「もどかしさ」に強く共感した時、到底和泉は私の手に負えないと悟ったのをよく覚えている。 京都、上京の小川通にあったものが秀吉の寺町構成で新京極(しんきょうごく)へ移って今に至る「誠心院(せいしんいん)」は和泉式部ゆかりの寺として知られ、訪れる人びとが絶えない。

新京極通りに面する誠心院山門

 

(2013/11/12)