シリーズ

 俳句の聖 松尾芭蕉  |わたしの歴史人物探訪

はじめに

古来、和歌の聖は柿本人麻呂、時代はずっと下がり、江戸初期に松尾芭蕉が現れて俳諧の聖と定められ、双方、誰の異も唱えられず今に至っている。 芭蕉の誉はひとえに「古池や」の句から来ているといってよい。 その背景を含め、魅力溢れる作品の幾つかを取り上げ、芭蕉51年の生涯を探ってみよう。

生い立ち

東京・深川の草庵跡、芭蕉稲荷神社

1644年、伊賀上野に半農の下級武家に生まれ、本名は宗房(むねふさ)(以後 芭蕉で通す)。 早くに父は亡くなり、家督は兄が継いだ。 封建の世の貧家の次男坊はつらい存在だが少年の折、小姓に、あるいは厨房(ちゅうぼう)の用人として藤堂藩、侍大将の跡継ぎに召し出された。 知的教養を重んじる藩風の中、ともに俳諧を学んだ2歳年長の主は、しかし、芭蕉23歳の折に亡くなる。 仕官の途を絶たれた彼が29歳で江戸へ、俳諧の宗匠をめざして下るまでの消息は明らかでないが、漢籍などの素養を深く身につけていることから、生活の軸は実家に置いたとしても京、五山の寺での修行が想像されている。 それによっていくらかの文人たちと交わり、老子、荘子の思想を学んで精神背景を形成していったのではないだろうか。

俳諧師、そして隠遁生活へ

俳諧の世界でも、まず伝統を重んじる保守的な京に比し、新風を好み、歓迎する武士と町人の街、江戸で芭蕉はその才能を着実に開花させ、さまざまな援助を惜しまない門人も増やしていった。 しかし、生計のためもあろう、ある時期は工事の事務仕事に携わったりもした。 宗匠として一応の地位を得ても、俳諧の流行はめまぐるしく移り、尖鋭(せんえい)的にもなって、しかも、芸術性の低い小手先の、いわば言葉遊びの域をそれらが出ていないことを、芭蕉は十分理解していた。 37歳の折、突如点料を得る師匠の座を遠ざかって隅田川を渡り、深川の草庵に隠者のごとき生活を始めたのだった。 真の動機は彼にしか知られようもないが、混迷を極める俳諧の世界で名利をより得ようとする日常を捨て、清貧の暮らしの中に、求める俳諧の道を一途に進もうとしたのだろう。 2年後、世にいう「八百屋お七」の大火に庵を焼かれ、身一つで逃れた芭蕉はさらに、その人生観を変化させ、より仏教に近づいていったといわれる。 やがて故郷から、母の訃報が届く。 門人たちの援助も得、再建された草庵に戻った芭蕉は翌年の夏、母の墓参もあって、旅に出た。 「野ざらしを 心に風の しむ身哉」で知られる「野ざらし紀行」だ。 行く先は故郷、伊賀上野から吉野、奈良、京、近江、美濃と続き、年を越えて4月、芭蕉庵に帰った。42歳になっていた。 この旅で、芭蕉は自らの変革を感じ取ったのではないか。 漂泊の内に孤独な己を客観視し「わび」「さび」の世界に自分は常住(じょうじゅう)坐臥(ざが)できるのか、理念を実践しようとする生活の中で、俳諧の道を探り続けられるか、試金石の旅だったから。 その成果は蕉風への手がかりとされる、連句「七部集」の第1「冬の日」を名古屋で生んだことだ。

俳諧と俳句

ここで連句について少し述べておこう。 今日、狭義には俳諧は俳句と同じだが「俳諧の連歌」の初句「発句」を俳句という。最後は「挙句」。 俳句の作者としての芭蕉と作品ばかり多く論ぜられるが、彼は俳諧の連歌「連句」を深まりある芸術へと高め、蕉風を完成させたのだった。 万葉の時代から、2人の一方が和歌の上の句、他方が下の句を詠む連歌は存在した。 その句数は多くなって、36、44、100韻、さらに連なるようになっていった。 室町後期から滑稽、洒落を主とした、おどけ、たわむれる言葉、つまり俳諧の連歌が盛んになり、これを「俳諧の連句」と称する。 ただ、残されている芭蕉の連句、代表作を収めた七部集を開いても、時代はあまりに移り変わっていて筆者には正直、理解が困難だ。 連句の面白みは対の前句を受けての連想と展開の妙にあるが、細かい決め事も多くなかなか難しい。 その上漢籍の、また当時の事物、常識としたものの知識の無さも読解の妨げになる。 ただ芭蕉を正しく学ぶには、連句の詠み人としての彼を無視するわけにゆかないとのみ述べておきたい。

大川端芭蕉句選

蕉風の確立

43歳の春、芭蕉に決定的な転機が訪れる。「古池や 蛙飛び込む 水のおと」の句だ。 寺の庭の池のほとりか、眠くなるほどの春の昼下がり、蛙が小さな水音を立てて池に入った、それだけの句。作は成そうとせず、思わず口をついて生まれた。 正岡子規の著「俳諧大要」は岩波文庫から出版されていて、書中「古池の句を弁ず」の一節が設けられている。 芭蕉以前の俳諧の歴史、そこに至るまでの彼のそれらを豊富に紹介し、この句について記している。  「日常平凡の事が直ちに句になることを発明せり。(中略)蛙が池に飛び込みしというありふれたることの一句にまとまりしに自ら驚きたるなり(中略)芭蕉は終に自然の妙を悟りて工夫の卑しきを斥(しりぞ)けたり」と。 子規は芭蕉自身も門弟たちの誰もが、この句を彼の最高作と言っていないことをあげ、ただこの後、芭蕉はここで感得した自然的趣味によって句を詠み、すべてを、誇りをもって人びとに伝えたと続けている。

細道の旅

1689年3月、46歳の芭蕉は「奥の細道」の長途(ちょうと)についた。 上方や伊賀、美濃、尾張などには多くの門人を抱えるようになった彼も、奥州、越後となればわずかにしかいなかったから、旅には困難が予想された。 しかし、深川の庵に長く留まれば、門人たちや、日常生活上の雑事に追われ、自らの俳諧に芸術的停滞をきたすことは明らかに思われた。 人生を旅と捉え、無常の中にあるすべて命あるものの美を追求し、身は俗に置いても風雅の高みをめざそうとする「風狂の心」は旅立ちを急(せ)かせた。 この書については皆さまよくご存じと考え触れないこととする。 連句を完成するのを「巻く」というが、和漢交じりの洗練しきった紀行文に俳句を添え、渾身(こんしん)の一巻を巻こうとしたかのようだ。 旅を終えても芭蕉は長く推敲(すいこう)を重ね、これが版行されたのは没後だった。

芭蕉の俳句

「奥の細道」出発の地

①?「まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅の花」

「奥の細道」尾花沢での句。筆者も若い頃、出張でよく訪れた山形駅の土産物売場には、句の印刷された手ぬぐいもあった。 「母のおもかげ」といっても娘のそれはないもの。化粧品の原料である紅の花を、化粧道具「まゆはき」を俤にして、といいまわしたのが何ともこころよい。

②?「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」

これも、その道中吟。金沢を発って小松に向かったのは陽暦の9月7日。 照りつける日差しはまだまだ厳しいが、ふと吹いてきた風は思わず涼しい。秋近し。 この句「つれなく」がよくないとの評もあるが、筆者はそう思わない。 これほど、普遍性に満ちた句はなかなか無い。どの地に身を置いても、誰しもが晩夏の一瞬、こんな風を感じたことがあるだろう。「日はつれなくも」がさりげなく上手い。 例えば同じ芭蕉の「菊の香や ならには古き 仏達」は句の良否はさておき、奈良を見知っているかどうかで、味わい方が変わるのは了解されよう。

③?「名月や 北国日和 定めなき」

細道の旅も、もうあと僅か。敦賀で中秋の名月を迎えることに。 前日、月の明るいのを喜び、楽しみにする芭蕉は、宿の主から酒を勧められて「越路の習い、猶明夜の陰晴はかりがたし」と諭され、夜半「気比(けひ)神社」に詣でた。  翌日、たがわずの雨に感心しきりの芭蕉が目に浮かぶ。

④?「行春を 近江の人と おしみけり」

春の名残を惜しむのは近江の人とでなければならない。 初夏の昼下がり、のたりとする琵琶湖の情景だ。 海では駄目。波がある。音がする。

⑤?「此の道を 行く人なしに 秋の暮」

「思うところ」の前書きがある最晩年の句のひとつ。 迫りくる孤独感の中に、凛とした芸への覚悟が。

晩年の芭蕉

落柿舍

細道の旅を岐阜、大垣で終えた芭蕉は伊勢神宮から故郷へ、奈良から近江、京と忙しく門人たちの指導にあたり、嵐山「落(らく)柿舎(ししゃ)」で「嵯峨日記」も記している。 1692年48歳になった彼は10月、江戸へ戻り、翌年5月、新しい芭蕉庵に移った。 そして2年後の5月、芭蕉は最後の旅に発った。 道中、内妻、寿(じゅ)貞(てい)尼(に)が江戸の庵で亡くなったと知らされた彼は、故郷で彼女の初盆(はつぼん)を執り行い「数ならぬ 身となおもひそ 玉祭り」と詠んだ。 寿貞尼には3人の子があり、父親は芭蕉でないとするのが定説で、同郷とされる。 尼の身の妻とは、いきさつは不明だが、芭蕉は彼女を深く愛していたと思われる。 その後、京、大津を転々として9月大坂に入った。 ここで、弟子同士の不仲をとりなそうとして不調に終わったのが、体調を悪化させる原因ともいわれる。 病は重くなるばかり。南御堂近く、門弟の知人「花屋」の座敷に移って1694年10月に没した。 その夜、川船で遺骸は伏見から大津へ、遺言によって「義仲寺」の、こよなく愛した源義仲の隣に葬られた。 蛇足ながら、終焉(しゅうえん)記として「花屋日記」があり、これを後世の作り物であることを了解したうえで岩波書店が出版したのは戦前の1935年。 いつわりの書でも価値が認められたのは、それだけ芭蕉に門弟が多く、彼を悼む言葉がさまざまに残されたことを示していよう。

おわりに

晩年、門人によく諭した「かるみ」とは身近な題材を、趣向、作為をできる限り避け、あるがまま表現する中に風雅を求めようとするもので、一例をあげて「蕉風」の締めくくりとしよう。 芭蕉第1の高弟と自他ともに認める榎本其(き)角(かく)は師をよく理解しながらも、自らは伊達を好み、奇抜、洒脱な句をよくした。 彼の「声かれて 猿の歯白し 峯の月」は江戸でもてはやされ、その力量、師を越えたのかと評判になった。 猿の鳴き声といえば、漢詩の世界では旅人の愁の泪を誘うとされる。 その声も、もはやかれ、月に向かってむき出した白い歯の凄絶さ。 芭蕉は褒めも貶しもしなかった。彼は自らの評論を弟子に強弁しないし、句の良しあしをとやかくいう師でもなかった。
ただそっとこの句を差し出した。
「塩鯛の 歯ぐきも寒し 魚の店」。
これを詩人、大岡 信さんは、長く新聞に掲載された「折々の歌」に紹介している。

義仲寺

芭蕉翁終焉の地(南御堂前)

 

 

 

(2014/01/17)