シリーズ

~ 名代の軍師、黒田官兵衛 ~ その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

黒田官兵衛を主人公に始まった2014年の大河ドラマ、どのような切り口なのか大いに楽しみです。
後書きに「友人に持つなら、こういう男を持ちたい」と綴った司馬遼太郎の「播磨灘物語」4巻も参考にさせていただき、その生涯を探ろう。

生い立ち

黒田家は近江の出とされ、備前、福岡、山陽道に面した、海に近い村落に流れ、祖父の代、播磨の国、姫路に移った。
富農の主に見込まれて定住し、家伝の目薬を広峰山(ひろみねさん)の神社の神符(おふだ)に付して売りだしたのが当たって、財を成したと伝わる。
なにやら優れた商人の趣(おもむき)だが代々、聡明で学問を欠かさない家風の中、父はその東、御着(ごちゃく)城の豪族、小寺氏の首席家老に上って、姫路の小城を預かった。
こうした1546年、幼名、萬吉、黒田官兵衛孝高(よしたか)は生まれ、息子の聡明さを認める父は、彼が22歳で家督を譲った。

官兵衛が仕えた小寺氏の居城 御着城址

家老職を継ぐ以前も、以降も官兵衛はしばしば京や堺の街をさまよい、事物を見て廻った。
彼は生涯、あらゆる状況を自らの目と足で探ることを怠らなかった。
少年、官兵衛が魅かれたのは堺を中心とする商業経済のありさま、見聞きする信長の中世の価値観を覆した経済、軍政の手法、キリスト教徒の寺のありようだった。
宣教には種々の情報が不可欠だったから、南蛮寺に入れば、雑多な信徒たちと交流して多くを得られたし、彼はその教えにも強く惹かれていった。
城では、この振る舞いに陰口もきかれたが彼は意に介さなかったし、生来、自らを目立たせようとする欲望の少なかった小柄な官兵衛は、その特異な存在を黙認されていたようだ。

世は動く

1575年、三河、長篠で圧倒的な数の銃器を用いて勝利した信長は、武田氏の内部からの弱体化を期待して深追いしなかったが織田軍強し、を全国に知らしめた。
播磨では明石の北西、三木に城を構える別所氏を筆頭に竜野の赤松氏など、豪族が群居して小競り合いを繰り返していた。
当時、播磨と摂津の国境(くにざかい)は明石で、東に隣接する花隈(はなくま)に砦を構える荒木村重は、伊丹を居城とし池田、高槻、茨木、尼崎の要衝を抑える、信長配下の大名だったから、織田軍は早晩播州へ入ってこよう。
播磨の豪族たちはいずれ織田、毛利、どちらかに属さざるを得なかった。
評定で、官兵衛が小寺氏の織田従属を決定させたから、これに同調し多くの豪族は信長に拝謁を願い出たが、その苛烈な性格を恐れる彼らの本心は異なるものだった。
状況を打開すべく毛利氏は姫路の南、英賀(あが)に水軍を送るが、官兵衛は上陸軍の弱点を見極めて果断な作戦を実行し、これを撃退した。
報告を得た信長は、彼の才知と行動力を十分に認めた。

騒然とする播州

長浜城で秀吉と懇談

官兵衛は諸国を廻って種々の情報を集め、まだ足を踏み入れて来ない、播州担当の将、秀吉に逐一報告していたし、長浜城で懇談していた秀吉は彼の機智に溢れる能力を高く評価し、人柄にも惚れ込んだようだ。
毛利からの執拗な調略に揺れる播磨の豪族たちは、信長へ人質を出すのを躊躇った。

官兵衛はキリスト教に入信して側室を持たず、子は後の長政、松寿丸(しょうじゅまる)だけだったが、この子を秀吉の元に差し出し、彼を喜ばせた。
1577年、手勢4千を率いて播磨に入った秀吉に、官兵衛は播州平定の基地とするべく姫路城を献上し、もう一人の軍師、竹中半兵衛と共に佐用(さよ)、上月(こうづき)の城を落とした。
居城から安土へ戻った秀吉は、翌年2月、8千に近い兵を率いて再び播磨に入った。
しかし、別所氏はついに反織田を掲げて約1万、三木城に籠もった。
姫路の北、書写山(しょしゃざん)に陣取ったものの毛利、宇喜多の作戦を見極めねば、秀吉とて動きようがなかった。
播州の最も西、上月城は旧尼子勢700ほどが、山中鹿之助らに率いられて守っていたが、毛利、宇喜多は5万もの兵で十重二十重に囲み、兵糧攻めに出た。
上月を見殺しにすれば、播州での織田の評判は一気に失墜しようが、勝算のない戦を避ける信長は見捨てるよう命じた。
そして秀吉を一時、但馬に向かわせ、おびただしい軍勢で東播磨の小城を次々に制圧して三木城を取り囲み、再度播州を秀吉に当たらせた。信長の部下使いの妙だろう。
毛利にとって三木への援軍派遣は遠い話、申し訳程度、高砂近辺の小城に水軍を向かわせて上陸したが、官兵衛の手勢に撃退されてしまう。

捕われた官兵衛

が、折しもこの時、摂津の荒木村重は信長に反旗を翻し、有岡(伊丹)城に立て籠った。
こうなると、小寺氏とてどう動くかわからない。

有岡(伊丹)城址

御着城に走った彼は小寺藤兵衛を諭すが、村重を翻意させられるなら、と条件をつけられる。
意を決し、単身有岡城に乗り込んだ官兵衛はしかし、捕えられ、全く陽の当たらない牢に監禁されてしまった。官兵衛32歳。
官兵衛が疎ましい小寺藤兵衛は村重に「彼を殺してくれ」と依頼したのだった。
自身は入信しないものの、キリスト教徒の良き保護者だった村重の温厚な人柄に好意をもつ官兵衛は、彼を救いたくもあったのだろう。
官兵衛失踪の真相が判明せぬまま、信長は秀吉に人質、松寿丸を殺せと命じた。
竹中半兵衛は秀吉に返答する間を与えず「私にすべてお任せを」と言い切った。
彼は秀吉の三顧の礼に応じて信長に与し、秀吉の軍師を務めるが、あくまでも信長の家臣。半兵衛の命令違反は、彼だけの咎で済む。長浜城へ赴き、人質を故郷、美濃山中の己の館にかくまった。
半兵衛は官兵衛を信じ、彼を守ろうとする信義の人だった。
村重配下、茨木の中川氏、高槻の高山右近を味方に引き入れ伊丹攻撃を開始したが、頑強な抵抗で信長は包囲作戦に切り替える。
そして水軍を充実させ、毛利の本願寺、三木、有岡への援助を徹底的に封じ込めた。
援軍到来に絶望した時、錯乱したか、村重は尼崎の小城へと逃亡した。
伊丹城は陥落、残された子女たち全員が刑死に処せられる悲惨な事態を招いてしまった。
一年余りの時を経て、牢獄から助け出された官兵衛は、歩くこともできず、その姿は「夏の陽ざかりの道に干からびてころがっている昆虫の死骸のよう」だった。
京で官兵衛救出を聞いた信長は、苦しい表情を浮かべ「官兵衛に対面する面目なし」と。
そして人質の無事を知るや「御快悦、浅からざりし」だった。
命がけでわが子を守ってくれた半兵衛が、5か月ほど前に播磨の陣中で没したのを聞いた官兵衛は「にわかに腰を折り、顔を腹へ掻い込むように垂れて、激しく泣いた」。
半兵衛は館の一室に松寿丸と忠臣ひとりを招き「私は播磨に戻る。戦場のこと、死ぬかもしれない。そうなったら、官兵衛が生きていたとしても、子の行き先がわからなくなってしまうが、その時はこの男が万事取り計る」と語った。
松寿丸はこの時の半兵衛の衝撃的な厚情を、終生忘れなかった。
後年、筑前に封じられた長政は半兵衛の子、重門(しげかど)の元を訪れ、彼の多くの子息の中から一人を養育させていただきたいと申し出、その次男に高禄を与えて恩に報いようとした。
さて、こうなっては三木城の別所氏も立ち枯れの運命は避けられなかったし、小寺氏も城を捨てて遁走した、1580年のことだった。

 

 

 

 

 

 

(2014/05/07)