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~ 名代の軍師、黒田官兵衛 ~ その2 |わたしの歴史人物探訪

中国の大返し

播州を制し、因幡、鳥取城を落とし、備前、美作の宇喜多を織田方に取り込んだ秀吉は漸く、本格的な毛利攻略に任ぜられた。
1582年3月、いよいよ備中をめざす兵約2万、従う官兵衛はまだ36歳で、身体に傷は負ったものの、頭脳はいささかも損なわれておらず、むしろ、地獄を見たことで、覆われていた何かが一枚取り払われたようだった。
宇喜多直家は既になく、秀吉は幼い秀家の後見人として宇喜多勢の臣従を図る。
この1万を加えた大軍は備中、高松城を取り囲み、織田、毛利は全面対決に入った。
しかし消耗激しい城の力攻めと、毛利との野戦の同時進行は何としても避けたかった。
高松城は山に囲まれた沼地の中の小さな丘の上にあって、城の南側に足守川(あしもりがわ)が流れていた。
秀吉は、前代未聞の水攻めを思いつく。
堰き止めて城側へ流せば、水量が十分なら、城を湖の中に孤立させることができる。
膨大な人数と土嚢を調達、僅か12日で大まかな工事を完成させた。
しかし、堤はほぼ完成しても最終的に川を堰き止め、城側へ流れを変える工事は難航した。
秀吉に方策を委ねられた官兵衛は、家臣の知恵も借りて見事これを成し遂げた。
さらに秀吉は幸運の持ち主だった。
梅雨時にしても、山陽地方に大雨が数日続き、瞬く間に人口の湖が現出したのだ。
こうなれば毛利軍の高松城救援は不可能で、秀吉軍との野戦にもとても踏み切れなかった。
たとえ野戦で少々の勝利を得ても秀吉は織田軍の一部隊に過ぎず、兵の補給が豊富であろう秀吉に対し毛利にはこれがすべての兵力だったから。
備中、備後、因幡、伯耆、美作の5か国のすべての割譲を条件に和睦を申し入れた。
望外の条件でも秀吉は、信長の許可なしに講和案を飲むわけにいかなかった。
まさにその時、信長死す、の報せが届く。
秀吉は、錯乱し、そして深い虚脱感の中で、ぼろ衣のようにへたり込んだ。
彼にとって神以上の存在だった信長が居ない?。
ややあって官兵衛は傍に寄り添い、秀吉の膝を擦って囁いた「さてさて天の加護を得させ給ひ、もはや御心の儘になりたり」。
秀吉は稲妻に打たれたごとくに顔を上げ、その意を解し「仇討のことか」と生き返ったように、目を輝かせた。
深夜ながらも毛利に急使を送り、翌日には城主の切腹を果たさせ開城、和睦を結んだ。
毛利への使者は捕えたものの、すべては毛利方に変報が達するまでの勝負だ。
後世「中国大返し」というが、3万を超える兵の移動は容易なものでないし、寝返って日の浅い、宇喜多の動きも心配だ。
宇喜多軍を先に岡山へ向かわせた秀吉は到着後の、街道筋警備を命じた。
本隊の殿(しんがり)を引き受ける官兵衛に、一報を受けた毛利が追撃に出ないかと秀吉は不安を漏らすが、彼は答える、引く前に自分がすべての堰を切るから、水は毛利本陣の方角へ流れ、野は水浸しになって人馬は容易に進めないと。
姫路城に入った秀吉は兵を整え直し、軍用の金銭のみを残し、すべての金銀、米を兵士に分け与え、尼崎に集合するべく、軍令を発した。
これは、密かに天下取りをめざし始めた秀吉にとって光秀との戦いだけでなく、織田家臣団と子息たちとの政治闘争の幕開けだった。
官兵衛は「山崎の合戦」に天王山の麓で奮戦したものの、手柄を誇る立場にはすでになかったし、秀吉の無くてはならぬ軍師の役目もここで終わったようだった。
秀吉を一枚の画布とし、そこに自らの夢を描いてきたような官兵衛と、秀吉との距離がこれから、うんと遠のくのを彼はよく承知していた。
官兵衛は心中深いところで、もう少し違う場所に生まれていたらと、自らの運命をやや恨んだかもしれない。

城内の多聞櫓、防御のための長塀

官兵衛・長政親子が築城した福岡城跡

晩年の官兵衛

36歳の晩年とは寂しいが「播磨灘物語」も細かい著述をここで止めている。
秀吉は彼を密かに恐れたが故に、官兵衛の進言をほとんど受け入れたのかもしれない。
彼とて闊達な人だけであるはずもなく、半兵衛や官兵衛のように、豊富な教養も知識も知恵もある男に、複雑な嫉妬心と競争意識を抱かざるを得なかったろう。
九州平定後、漸く豊前12万石を与えられた官兵衛は隠居を申し出るが、家督を22歳の長政に譲ることのみ許され「身ハ褒貶毀誉(ほうへんきよ)ノ間ニ在リト雖(いえど)モ心ハ水ノ如ク清シ」の古語から「如水」と称して出家できたのは48歳の時だった。
秀吉が亡くなり、やがて関ヶ原の戦いが起こるが、息子、長政には家康に味方して、大いに調略を施し、戦うべしと命じた。
東西の対立は長引くと見、鮮やかな手際を弄して九州諸国を切り取っていったが、戦が即日決着したと知ったとき、官兵衛はすべての終焉を悟ったに違いない。
最晩年、城の片隅に海の見下ろせる小さな家屋を求めて妻と住み、1604年に病を得て亡くなった。58歳だった。

おわりに

家康から筑前52万石の大名に取り立てられた長政は備前、福岡を黒田家の礎(いしずえ)と考えたい父の指示に従って、この地を「福岡」と名付けた。
秀吉はある時、戯言(ざれごと)で「わしが死んだら誰が天下を取るか」と取り巻きに尋ねた。
家康、毛利、前田と大家の名が出たが秀吉は官兵衛だと言った。
「官兵衛の器才がいかに玄妙なものかを語り、自分はかれの意見でどれほどたすけられたかわからない」といった逸話が物語に紹介されている。
関ヶ原の戦いの後、家康が「この勝利は貴殿のおかげ」と功績著しかった長政の手を取り、3度押し頂いたと息子から聞かされた如水は、取られた手はどちらだと尋ねた。
右手と答えると「その間、お前の左手は何をしていたのだ」とこともなげに言ったという。
これはさすがに作り話めいているが、官兵衛が志を天下に抱いて生きたのは確かだろう。

(2014/06/02)