シリーズ

与謝 蕪村 その1 |わたしの歴史人物探訪

潤い豊かな詩歌と絵画 与謝 蕪村 その1

はじめに

松尾芭蕉が亡くなって67年、1716年に生まれた俳人、与謝蕪村は池大雅(いけのたいが)、円山応挙(まるやまおうきょ)と同世代、並び称される画家でもあり、生計の多くは絵を描いて立てていたかもしれない。
没して程なく忘れられていった蕪村の詩歌は、正岡子規に再発見された。
が、子規の唱えた写生主義に引きずられ、その面ばかり強調されてきたのは事実だろう。

おくのほそみち図屏風

確かに蕪村の俳句には絵のような、色彩を帯びた作品は多い。
しかし昭和に入り、自身が詩人の萩原朔太郎はそれらに情感の深さと浪漫性を見出し「郷愁の詩人」として一文を著わした。
岩波文庫から出版されているから、一読をおすすめする。
蕪村の生涯を短く紹介し、幾つかの詩歌を取り上げてその魅力を探ってみよう。

生い立ち

京からほぼ南西に流れてきた淀川が東南に、今の旧淀川(大川)に大きく湾曲する、毛馬閘門(けまこうもん)の近くに、蕪村は生まれたという。
谷村姓というから、庄屋とか村長とか富農の家と考えられるが、丹後から奉公に上がっていた母との間に蕪村が生まれたようだから、彼は肩身の狭い思いで長じたとも想像される。
将軍、吉宗の時代、大阪の都市近辺では、商業資本による農地の買収も進んでいたようで、幼くに母を亡くしていた彼は、たとえ家督を継いだにせよ、早くに土地、家屋敷を手放してしまったようだ。
生涯ほとんど触れもせず、足を踏み入れなかった故郷、蕪村には苦々しい記憶だけが残っていたのだろうか。

絵師、俳諧師への道

20歳で江戸へ出た蕪村は俳人 早野宋阿(はやのそうあ)の「夜半亭」に内弟子として住み込んだ。
宋阿は芭蕉の弟子、宝井其角(たからいきかく)、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の門
下で、10年余りは宗匠として京に過ごしたから蕪村はなにがしかの面識を有していたと考えられる。

与謝蕪村の肖像画

彼が27歳の折に亡くなった師は、同じく芭蕉を尊敬する蕪村に「学ぶのは良いが、真似はするな、独自の境地を探れ」と諭す高潔で、優れた指導者だった。
蕪村はこの教えを終生守り通した。
その後、常陸の国、結城で同門の親友の元に逗留し、北関東から東北まで長い旅も続けたが、紀行文を書くこともなかったから、足跡の詳細は不明だ。
が、この頃から絵の注文もいくらかは入ってきていたようだ。
彼の良き理解者であり、庇護者だった俳諧を好む酒造業者、早見晋我(はやみしんが)が没して間もなく、友人にも別れを告げ、京へ向かった。蕪村36歳。
京には優れた絵師が多かったから、居を構えても、絵画の腕を磨くための旅は続き、その名は次第に定まっていった。
母の故郷、丹後にも3年ほど滞在し「与謝」を苗字としたのもこの頃か。
俳諧の弟子も次第に集まり、名古屋などから上ってくる同志もできた。
45歳ほどで妻帯し、娘を一人持つ。
俳諧の師、宋阿門の先輩、高井几圭(たかいきけい)の子、几薫(きとう)は父の没後彼を慕い、蕪村は夜半亭を将来は几薫に譲ろうと決心して2代目を襲名した。55歳になっていた。

蕪村の俳句、詩歌

① 菜の花や月は東に日は西に
ほとんど説明は不要。写生的な句で菜の花畑の情景は容易に目に浮かぶ。「お見事!」と声がかかりそう。

② さみだれや大河を前に家二軒
芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」に比し、うんと絵画的だが、降りしきる雨の中、大河のほとりに頼りなげに寄り添う2軒の小家。蕪村が描き出そうとしたものは何なのか。単なる絵一枚ではなさそうだ。

③ 月天心貧しき町を通りけり
中国の詩「月天心ニ到ル処」から採った。月が頭上に掛っているのだから、もう夜更けだ。
何の用があってかは分からない。貧しげな町に静かに眠る人々の生に思いをいたす詩歌の情がしみじみ感じられる。

④ 易水にねぶか流るゝ寒さかな
「易水(えきすい)」と聞けば、唐詩選を開いた人なら五言絶句「易水送別」が思い浮かぶ。
中国戦国末期、燕(えん)の王、丹は秦の強圧な外交に怒り、忠僕の士、荊軻(けいか)を秦王暗殺に送り込もうとする。
易水は中国北部を流れる大河、そのほとりに喪服を着けて送別の宴を開いた。
荊軻は歌った「風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒し 壮士一たび去って 復た還らず」と。
もとより彼の生還などあり得ない。

蕪村が当季によめる句


時は過ぎて唐の時代、はからずもこの地に友を送ることとなった作者はその故事を思い起こし、絶句の紹介は省くが詩をなして、はなむけとしたのだった。
その易水にねぶか(ねぎ)が流れているほどの寒さという。
脳裏に浮かんだ想像の空間をうまくとらえて面白い。
③、④の俳句には天心とか易水という 漢語、中国の固有名詞が登場する。

 

(2014/07/07)