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6000人の命を救った 杉原千畝 |わたしの歴史人物探訪

はじめに


大正出版 写真提供

 千畝は1900年岐阜県加茂郡八百津町に生まれ、1919年に外務省留学生試験に合格。
留学生としてハルピンでロシア語を学んだ後、1924年外務省書記生に採用され、外交官の道を歩み始めます。
1937年にフィンランドのヘルシンキ日本公使館に赴任し、1939年からリトアニアの「在カナウス日本領事館」で領事代理を務めますが、主な任務はソ連への諜報活動でした。

「命のビザ」発給まで

1940年当時、リトアニアヘは多くのユダヤ人が、ナチス占領下のポーランドから逃亡してきていましたが、リトアニアを併合したソ連は反ユダヤ政策をとったため、多くの国が領事館・大使館を閉鎖していました。
そのような理由から日木領事館には多くのユダヤ人が「通過ビザ」を求めて殺到し始めてきました。
日本政府はユダヤ人に対して中立な立場を取っていましたが、通過ビザの発給には外交政策上高いハードルが課せられていました。
ユダヤ難民のほとんどはその受給資格を欠いていたので、千畝は本省に発給伺いを立てますが許可はおりません。
必死の形相で詰めかけるユダヤの人びとを前にした千畝は、1940年7月25日外務省の指示に背き、要件の整っていない人びとにも「日本国通過ビザ」を半ば無制限に発給する決心をしました。
千畝を突き動かしたものは何だったのでしょう?
晩年の言葉に「難民が目に大粒の涙をうかべて懇願してくるのを実際に見れば、誰でも憐れみを感じるでしょう。それは同情せずにいられないものです。かれら難民の中には、お年寄り、女性、子どもたちも大勢いたのです。…」クリスチャンの良心が彼の魂を揺さぶったのかもしれません。
出国を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道で大陸を横断し、ウラジオストクから船で敦賀に上陸した後、神戸を経由してアメリカや上海に渡って行きました。


故郷岐阜県八百津町「人道の丘」にある杉原千畝の銅像

その後の千畝

リトアニアの領事館退去後はヨーロッパ各地を転々とし、ルーマニアで終戦を迎えてソ連に身柄を拘束されました。
1年間の収容所生活の後、1947年日本へ帰国し、同じ年に外務省を退職しています。
表向きは依願退職になっていますが、ビザ発給の責任を問われたのかもしれません。
その後は語学を活かして貿易会社などにも勤め、1986年7月波瀾に満ちた人生に幕をおろしました。

千畝の功績


杉原千畝記念館全景

 政府の方針に反して通過ビザを発給し続け、多くのユダヤ人の命を救った千畝への評価は海外では特に高いものです。
1969年イスラエル政府から勲章を授与された後、1985年には同国政府から日本人として初めてヤド・バシェム賞を贈られ「諸国民の中の正義の人」に列せられ、エルサレムの丘には顕彰碑が建っています。
また、リトアニア政府は首都の通りの一つを「スギハラ通り」と命名しました。
世界中で千畝の名は「東洋のシンドラー」などとよく知られていますが、日本では長い間ごく一部の人びとにしか知られていませんでした。
しかし、生誕百周年にあたる2000年に、ようやく外務省は業績を称える顕彰プレートを「外交資料館」に設置しました。
2000年には、生まれ故郷の八百津町に「杉原千畝記念館」がオープンし、毎年2万人もの人たちが訪れています。千畝の良心とその業績は、教科書などに掲載して長く子どもたちに伝えてゆきたいものです。

(2012/11/28)