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「歌舞伎」のいしずえをなした 謎多き女性 「出雲阿国」その1 |わたしの歴史人物探訪

「阿国」とは

「歌舞伎」の原型「かぶき踊り」の始祖と伝えられる「出雲阿国(いずものおくに)」は名のとおり出雲に生まれ、江戸城にも招かれて円熟の芸を披露した後、故郷に帰り晩年は出家して過ごしたと伝えられ、大社町杵築(たいしゃちょうきずき)には遺品とされる幾つかが残されている。この地を訪れた画家は、掛け軸にその艶姿(あですがた)を描き、歌人は歌に詠んで彼女を称えた。

京都四条、鴨川端の阿国像

また歌舞伎の関係者や地元の人びとは阿国に尽くせぬ感謝の念をこめて墓を整備し、顕彰碑を建てた。
現地に取材に出向き、「出雲阿国顕彰会」の方や多くの皆さまに案内していただいて、そうした品々や供養のさまに直接触れてきた。
その余情に浸って「出雲大社の巫女だった魅力溢れる阿国」を想いつつ本稿の筆を執りたいが、近世の最初期に活躍した彼女の生没年、その足跡はあまりにも資料が乏しく、まとめるのは困難と判断せざるを得なかった。
したがって、今回は歌舞伎の周縁を中心に考えてみる、お許し願いたい。

 さまざまな 「芸術、芸能」の萌芽

「日本の伝統文化」日本画、舞踊、能・狂言、茶道、華道、作庭などは中世末期に芽生えたと考えてまず誤りない。
これらの担い手の殆どが庶民、賤民層の人びとであったことを「華道」を例に示そう。
烏丸通りを四条から北へ三筋、六角通りを東に入った北側に「六角堂」がある。
塔頭(たっちゅう)が六角形の、聖徳太子創建と伝わる今は小さな寺だが「紫雲山 頂法寺」の名を持つ名刹だ。
1467年から10年も続いた「応仁の乱」は当初、多く洛中で争われた。
幾ばくかの金銭で雇われた兵士も居たのだろう、小競り合いの後にはそこかしこに彼らの亡き骸が取り残された。
街の中心にある六角堂はいくらかの報酬を得て市中の清掃を引き受けていたのだが、僧たちの指揮の下、死者を埋葬するのは「掃除散所」などに属する「清め」を生業とした人びとだったといわれている。
彼らは名もなき死者を哀れみ、いつしか野の花を手折って墓とした土饅頭に挿すようになり、その作業を「立花(りっか)」と呼んだ。
六角堂は本坊「池坊」が歴代、寺の管理にあたっていて、本尊の「如意輪観音」に花を供える習慣があったともいう。
やがて「花を立てること」は精神、技術両面に深まり、十三世住持 池坊専応が「口伝」を著し「立花の技術、理論」の基礎を示したのが「華道」の始まりとされる。

左の於国塔は1936(昭和11)年歌舞伎界や水谷八重子さんなどの名優たちの寄付によって建てられました。
右の出雲阿国終焉地之碑は阿国が生まれ、生涯を閉じたとされる里の近くに、出雲阿国顕彰会によって1980(昭和55)年建立されました。

なぜこの時代に

いろいろ考えられるが、一つに「仏教の変革と庶民化」が上げられよう。
鎌倉時代には、親鸞の「浄土真宗」、日蓮の「法華宗」、一遍の「時宗」など多くの新興仏教が生まれた。
武士政権が成立し大きく変化していく社会を不安に、貧しく生きる人びとは精神的な拠り所に飢渇していたが、貴族社会に取り入った旧仏教は形骸化して、もはや求心力を持たなかった。
新しい仏の教えは乾ききった砂地に撒いた水のように、人びとの心の中へしみ込んでいった。

京都四条通りの「南座」

これは日本での「宗教改革」だった。
一心に念仏を唱えることで極楽浄土が約束されると信じ、生気を取り戻した庶民や「下賤」とされてきた人びとは、溌剌として辛い現世を生きはじめた。
そして武士が一手に権力を握ったと見えて、天皇を中心に貴族や京、奈良の大きな寺社はそれなりの力を失わず、盛んな外国貿易がもたらした文物は、さまざまな技術革新を促進して、商工業が急速に発展したのが「中世」だった。
商人や職人は「座」を組織し、公家や寺社と結んで特権的な事業を展開したし、京や堺では自治も強化されていった。
政治的には混乱はしたが、物心両面に豊かさを持った庶民、賤民がその力を自由に十分揮(ふる)った時代だったのだ。
より美しく、楽しいものの創造を渇望する時代の期待に応え得たのも明らかに、権力におもねる上流階級の人びとではなく、長い間、苦しい生活現場で腕と技を磨いていた彼らだった。
こうして安土・桃山の時代に日本の芸術、芸能は一気に花開いた。

(2014/12/02)