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「歌舞伎」のいしずえをなした 謎多き女性 「出雲阿国」その2 |わたしの歴史人物探訪

「かぶき踊り」から「遊女かぶき」へ

舞踊に卓抜した才能を示す阿国はやがて「出雲大社修復勧進」の「ややこ踊り」(十歳前後の子どもが舞った念仏踊りの一種か)で大評判を博したという。

阿国が晩年を過ごしたとされる「連歌庵」

ところで「勧進(かんじん)」とは元来「大寺や神社の再建、修復を目的に寄付を募る行為」である。
歌舞伎で弁慶が持っている「勧進帳」は、平重衡(しげひら)に焼き落とされた奈良の興福寺が、一行を「再建の浄財寄付を願い募る者たち」と認めた書状(実は白紙なのだが)だ。
時を経て単に何がしかの芸を披露し金銭を得る名目となり、近世には「物乞い」をさす言葉に変わっていったのかもしれない。
「五木の子守唄」の一節「おどま、勧進かんじん あん人たちゃよか衆」とは「自分たちは物乞いして生きる貧乏な身、あの人たちは良い暮らしの人びと」の意であり、江戸期の「勧進場」とは賤民身分の人びとが定められた日「物乞い」のできる場所をいった。
阿国はやがて「かぶき踊り」を完成させた。
「かぶき」「かぶく」とは「傾く」からきた言葉で、例えば南蛮風の最新の衣装に身を飾り、世間の常識を逸脱した感覚で生きる、体制に背を向け独自の美意識の元に活動することをいう。
「歌舞伎図鑑」に残る、阿国であろうとされる女性は派手な小袖に鉢巻を締め、首飾りの先に十字架を吊るし、瓢箪(ひょうたん)、大小刀と扇子を携えている。
阿国はこうした「かぶき者」の身なり(男装)で、舞いに「猿若」(道化師の演ずる滑稽芸)を交えて演じたので、これを「歌舞伎」の原型とするのだ。
この斬新な「演舞」はもてはやされ、やがて京都を中心に、遊女屋が模倣した「遊女かぶき(女歌舞伎)」の隆盛を招く。
「四条河原」に小屋掛けして「張見世興行(はりみせこうぎょう)」を始めたもので、沖浦和光先生の著「『悪所』の民俗誌」によれば「張見世」とは元来「遊里」に住む遊女が「店に並んで客を待つこと」だったとするから、つまり出張仕事を始めたのだ。

「歌舞伎」の変遷

「遊女歌舞伎」は艶っぽい派手さによって大いに広がり、より卑猥に扇情的になっていったが、江戸幕府が権威を安定させるに従って、乱世の余韻を一掃し綱紀を粛正する政策の中に埋没していかざるを得なかった。

出雲阿国の墓

幕府は遊女の囲い込み作業と並行して規制を強め、1629年から33年にかけて「張見世興行」「遊女歌舞伎」を全国的に禁止する。
続いて前髪立ての美少年たちが演じる「若衆歌舞伎」も、戦国時代から武士たちに多くみられた「男色」を助長するものとして1652年には同じ運命を辿った。
前髪を額から頭の中央に剃る月代(さかやき)をした、庶民の髪型で演じる「野郎歌舞伎」が写実的な芸を条件に、現在の歌舞伎の形態として漸く認可されたのだった。
その後も長く、幕府政治の下でさまざまな締め付けを受け、役者は「河原乞食」と貶められたりしたが、脚本を書き、演出し、演ずる者のすべてが大衆の求めをよく察知し、吸い上げて知恵と工夫を凝らしてきた。
弾圧する権力への鬱憤(うっぷん)を晴らす巧妙な筋立てや、度肝抜く演出はいつも観衆を熱狂させたから、人びとは役者に強い憧憬と一種、畏敬の念を抱き、舞台に大きな声援と熱い眼差しを投げかけ続けてきたのだった。
歌舞伎は近代に入っても時代の変化とともに推移するが、庶民から最も愛される「伝統芸能」の地位を常に守って現在に至っている。
「於国塔」は小高い山の中腹にあって、そこから「国引き神話」にまつわる稲佐の浜(いなさのはま)の絶景が望めるし、ゆかりとされる寺や庵は同じ杵築の街にひっそりと佇んでいる。
そして阿国の生涯を物語として楽しまれるなら、有吉佐和子さんの「出雲の阿国」が中公文庫から発刊されている。どちらも一見、一読をお勧めしたい。

(2015/01/05)