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世界中の子どもの幸せを願い、描き続けた いわさき ちひろ |わたしの歴史人物探訪

世界中の子どもの幸せを願い、描き続けた いわさき ちひろ

いわさき ちひろ  1973年

はじめに

1918年に生まれ「現代」に活躍した激動と混乱を極めた日本の近代最終末から現代の最初期を、清冽にまっすぐに生き、珠玉の絵画を数々遺してくれた いわさきちひろ(岩崎 知弘)を紹介する。

画家への道

いわさきちひろは東京山手の、父は陸軍築城本部の建築技師という比較的裕福な家庭に生まれ、14歳で素描から油絵を、18歳には藤原行成流の書を習う。
戦前のこと、三人姉妹の長女ちひろは20歳で親のすすめる婿(むこ)を迎えたが、満州での結婚生活は1年に満たず、夫の自殺で不幸な終止符を打った。
帰国したちひろだが、大戦末期の1944年「女子義勇隊」の一員として再度満州へ渡る。

いわさき ちひろ  1972年
わらびを持つ少女 『あかまんまとうげ』より

日中戦争が激化し非常時体制がとられる中、女学校教師の職を辞し「大日本青少年団」主事として、中国大陸へ花嫁を送る仕事に携わっていた母を助けたかったのか。
戦況が極端に悪化し4ヵ月ほどで帰った東京とて安全なはずもなかった。翌年5月の大空襲に実家は全焼する。
終戦後、両親は東京に戻ろうとしなかった。父の実家近く信州、安曇野(あずみの)で開拓農民としての生活を選ぶ。
戦前の職業、地位が「戦争への加担」であったことの贖罪(しょくざい)に、それらとの係わりの一切を絶ち、僅かに父の土木知識を開墾に傾けようとしたのだ。

かつて正しいと信じたあの「戦争」はいったい何だったのか。
両親の思いに自らの思いと空襲の記憶が生々しく重なるちひろは、終戦の翌年、疎開していた松本で「日本共産党」に入党して上京、宣伝部の芸術学校へ進んだ。
弁護士で後に衆議院議員となった夫の松本善明さんは著書「妻ちひろの素顔」に、当時の状況を「民主化運動がはじまろうとしていたたいへんな高揚期で、ちひろが今から考えると無謀に思える上京を企てるだけのロマンに満ちた活動が展開されていたということです」と振り返っている。

いわさき ちひろ 1971年
ピンクのうさぎとあかちゃん

ちひろの取材記事や連載小説の挿絵は斯界の人びとの目にとまり、評価されて、紙芝居や単行本、教科書の作画依頼も入り始めた。
翌年「日本童画会」「日本美術会」にも所属し職業画家として立つことを決意する。28歳だった。

活躍のとき

ブリキ屋さんの二階での質素な下宿生活、7歳半年下の若者との恋、結婚、そして一人息子、猛さんの出産。
やがて現在「ちひろ美術館」のある練馬、下石神井(しもしゃくじい)に家と画室を構えたちひろは主に童画、絵雑誌に取り組んで多忙を極めていった。
柔らかな水彩画に描かれた多くは、子どもとあかちゃん、猫や犬に花々、何もかもが優しくあたたかな愛情に満ち溢れている。
長くお醤油の広告も作成したが、例えばこんな具合に独創的でほのぼのとかわいらしい。
アンデルセンなど童話の絵本も手がけ、画家としての地歩を固めた彼女の筆が洗練、熟達の境に達した1965年から70年頃、世界中の人びとの心を痛ませていたのは「ベトナム戦争」だった。
「母さんはおるす」は、ベトナム人作家の短編小説に鉛筆と薄墨だけで描き添えた絵本。父さんは遠い戦場へ出て帰らないうえ、母さんも職場に行くように戦争にでかけてお留守ばかり。
10歳ほどのお姉ちゃんを頭の5人姉弟は、母さんが「銃の先」にお饅頭下げて帰ってくるのを待つ苛酷で厳しい境遇をたくましく生きている。
ここでは、描かれた子どもたちの生命は躍動し、楽しそうで明るい。

いわさき ちひろ  1972年
戦火のなかの少女 『戦火のなかの子どもたち』より

翌年、遺作となった代表作「戦火のなかの子どもたち」に取りかかった。
展覧会に出品されたベトナム戦争への抗議の思いがこもった3枚の絵は出版社の編集者に衝撃を走らせた。
「これらの作品をもっと膨らませて絵本を作りたい」という依頼を体調の不良を訴えていたちひろだが快諾した。
「戦火のなかの子どもたち」に特別な筋立てはない。
描かれた1枚1枚に物語は内包されていて絵本は絵とちひろの短い言葉と、読者の想像力で進んでゆくのだ。
冒頭の赤いシクラメンが、流された子どもたちの血潮かと見えてしまうのはやるせない。
否応なしに戦場に投げ出された子どもたちの眼差しは戸惑いに、無力感に、悲しみに、恐怖に、絶望に満ちて、今までの絵本に登場したそれらと全く違う。
「青春時代のあの若々しい希望を何もかも打ち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」
……ちひろの言葉だ。
1973年の夏、絵本を完成させた彼女を秋、病が襲う。
翌年8月ちひろは亡くなった。55歳だった。

いわさき ちひろ  1973年
焔のなかの母と子 『戦火のなかの子どもたち』より

おわりに

亡くなる前年の手帳に「力が無くて無力なとき(いつもそうなのだろうけど)人の心のあたたかさに本当に涙ぐみたくなる。この全く勇ましくもない私のもって生まれた仕事は絵を描くことなのだ。たくましい、人をふるいたたせるような油絵ではなくて、ささやかな絵本の絵描きなのである。そのやさしい絵本を見たこどもが、大きくなってもわすれずに心のどこかにとどめおいてくれて、何か人生のかなしいときや、絶望的になったときに、その絵本のやさしい世界をちょっとでも思い出して心をなごませてくれたらと思う。それが私のいろんな方々へのお礼であり、生きがいだと思っている」と残されている。
いわさきちひろさんは、少女のような澄んだ瞳の持ち主でどこまでも優しい女性、夫を心から愛しささえた妻、子をこのうえなく慈しんだ母、そして世界中の子どもの幸せを願い続けた人だった。

☆「安曇野ちひろ美術館」から貴重な写真および画像をご提供いただきました。末尾ながら深く感謝申し上げます。

(C)KODANSHA
安曇野ちひろ美術館外観

東京館外観 撮影:中川敦玲

安曇野ちひろ美術館

 

ちひろ美術館・東京

(2015/04/06)