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貧困の中に名作を綴った薄命の佳人 樋口 一葉 その2 |わたしの歴史人物探訪

一葉の小説

鷲(おおとり)神社

作品を一つ紹介する。
「たけくらべ」ときけば、学校時代に習った「伊勢物語」の「筒井筒」が思い浮かぶ。
井戸の周りでいつも遊んでいた幼馴染の二人が、やがて添い遂げる可憐な歌物語だ。
同じ小学校に通う「たけくらべ」の主人公が、自分たちの立場を肌身にしみて知るのは少し先のことだろうが、美登利はその将来を金で買われた娘、信如は寺の跡取り息子だ。
運動会で松の根につまずき泥だらけになった時、ハンカチを取り出し介抱してくれた美登利は信如にとって憎からぬ存在だが、同級生にからかわれ恥ずかしさのあまり口もきけず、出会えば逃げ出す始末。
稼ぎの良い姉に劣らぬ遊女に育つはずの美登利は「大黒屋」の大事な商品(もの)、抱えの親に甘やかされるばかりだ。
学校や近所の仲間に大判振る舞い、わがまま放題の彼女だが信如がなにかと気にかかる。
美登利を姉のように慕う高利貸しの子、正太が頭(かしら)の「表町」の子らの敵は「横町」のガキどもだ。
「千束(せんぞく)神社」の夏祭に受けた屈辱を今年は晴らしたい横町の大将格、鳶職人の息子、長吉は乱暴者ゆえ人望に薄く、物静かで賢い信如に後ろ盾をと頼み込む。
その夜押しかけた表町の筆屋に正太は不在。
それならと、横町の生まれながら正太の子分もやむない、つらい立場のひょうきん者、三五郎を呼び出し『此の二股野郎覚悟をしろ』と散々に打ち据える。
止めに入った気丈な美登利が『正太さんと喧嘩したくば正太さんとしたがよい、逃げもせねば隠しもしない、ここは私が遊び処、お前がたに、指でもささしはせぬ』『意趣があらば私をお撃(ぶ)ち、相手には私がなる』と罵れば『何を女郎め、頬桁(ほうげた)たたく、姉の跡つぎの乞食め、手前(てめえ)の相手にはこれが相応だ』と長吉が投げた泥草履は彼女の額に命中する『ざまを見ろ、こっちには龍華寺の藤本(信如)がついているぞ』と。
翌日から美登利は学校へ行こうとしない、悔しさとともに情けなくてならぬ。

竜泉寺町旧宅跡

秋雨の夜、いつものように遊ぶ筆屋の店先に足音が。
信如だと知った美登利は、悪態をつきながらも下駄を突っかけ覗き見る。
『四五軒先の瓦斯燈(がすとう)の下を大黒傘(だいこくがさ)肩にして少しうつむいているらしくとぼとぼ歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに』の一節は切ない。
またの雨の日、届け物の使いに出た信如が下駄の鼻緒を切ったのは、運悪く大黒屋の門前。
焦るに加わる生来の不器用、まして紙のこよりは雨に濡れ、鼻緒はどうにも繕えない。
気配を察して出てきた美登利の目に、傘は転がる包みは落ちる、羽織はずぶ濡れ、泥だらけの信如。
胸は高まり、頬は染まって立ち尽くす美登利と雨に濡れ汗にも濡れて石のような信如の、言葉無き二人。
格子の間から投げ出した布切れを手に取ろうともしない信如が、恨めしいやらもどかしい美登利も母の声にせかされ中へ。
『今ぞ淋しう見かえれば紅入り友仙の雨に濡れて紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散りぼひたる』
やがて「女」になってお転婆な遊びも、いなせな啖呵も消えた彼女は、ただ沈み込むばかり。
ある霜の下りた朝、誰だろう門の内へ置いて行った水仙の作り花を、違い棚の一輪ざしに活けて淋しく見つめる美登利。
それは信如が僧になるための学校へ、街を去った日だった。
二人は全く異なる大人への道を歩み出した。
「筒井筒」と違い、結ばれるはずのない幼い恋は雨の泥道に散った「紅葉鮮やかな友禅の布切れ」のごとくに空しい。

駄菓子屋の店先(模型)
・三浦宏作(一葉記念館所蔵)

菊坂、旧宅跡の井戸

一葉の文学

同世代の多くの作家は当時の文章を書く上で不可欠な「漢文」の素養を有していたうえで「和漢混用」の文語調から新しい「言文一致」をめざしていた。
そして先進諸国の文芸に目を向け、西洋文化を吸収する努力を惜しまなかった。
しかしそれらと隔絶して成長した一葉は古文を基底にした、むしろ時代に逆行する文体で、社会の底辺に生きる女性たちの姿を記した。
「十三夜」のお関は実家の貧しさゆえに、何変わらぬ地獄が明日からも続こう婚家へ、涙をぬぐい帰って行った。
事情があったにせよ奉公先の金を盗んだ「おおつごもり」のお峯には、わずかな幸運で一時の小康を得られても、貧しさから逃れ明るい将来が開ける見通しなど無いのだ。
「にごりえ」のお力は屈折した恋を、自分がすべてを狂わせた男と自らの命をもって閉じなければならなかった。
紹介した「たけくらべ」には、子どもが「子ども」でいられる夏から冬の最後の時間が、あたかも幻灯絵のように、抒情味豊かに映し出されているが、救いのないことに変わりない。
廓で身を売るよりない美登利が恋に生きれば、破滅だけが待っていよう。
「身分職業の自由」といったところで時代は、まして社会の暗部に生きる人びとにそれを容易に許しはしなかった。
作品はいずれもこうした悲劇を投げ出すばかり、そこから一歩踏み込んだ何も一葉は示せなかったのだという評論は多い。
それなりの才能を発揮し尽くし、短い生涯を終えたという評もある。

旧「本郷丸山福山町」、最後の住い跡

が、明治半ばから興る「自然主義文学」正岡子規の唱えた「写生主義」漱石の未完の作「明暗」にも示される「人間の自我」をえぐり出そうとする「明治の知性」に「もし」彼女が接していたらと惜しまれもしよう。
一葉は自らが赤貧に生きる女性であることをほぼ唯一の武器に、封建時代の遺風を引きずる明治社会に、特に弱い立場の女性が受けねばならなかった人生の実相を切り取って、掌(たなごころ)に載せるように差し出した。
さまざまな「限界論」はさておき、彼女がそれを見事に描ききったことは確かだ。
それはでも、一葉自身の女性としての幸せや豊かな生活を犠牲にしてしかなし得られなかった。
芸術家の多くは、どうしようもない自らの不幸と引き換えに、優れた作品をこの世に遺すものなのかもしれない。

 

おわりに

質屋伊勢屋の蔵

本郷、菊坂には一葉が母と通った質屋の土蔵が今も残されている。
案内板に「蔵のうちに はるかくれ行く ころもがえ」の句が記されている。
6月の衣替え、春の装いは質屋の蔵の中へと隠れてゆく、まるで自分の春がはるか暮れゆくように。
好い句かどうか別として、娘らしい慎ましやかさで呟いた嘆きは心に触れる。
坂下から一人もう一度ここまで戻って、せめて一掬(いっきく)の涙を私は供えたかった。
(注記…明治初期の日本社会にかかわる本稿に、今日では人権上問題のある表現、語句を含むと認識した上で原文の一部を『』でくくって引用しています。)

 

(2015/06/05)