シリーズ

~打倒鎌倉の名将か、はたまた~ 新田義貞 その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

楠木正成とともに忠臣と崇められた新田義貞も戦後、自由な歴史検証が進み、人となりと行動への評価はさまざまに分かれている。彼の生涯を辿り、その毀誉褒貶(きよほうへん)の出所も探ってみよう。
源頼朝の血筋が絶えて、征夷大将軍に皇室から親王を迎えることとした北条氏は、執権職にあって政権を握った。当主を得宗という。13世紀末の蒙古襲来の国難は、台風直撃で振り払ったものの幕府や、武士階級だけでなく貴族、寺社仏閣の人びとまでを経済的困窮に追い込んだ。武力闘争の勝利者は、敗者から多くを奪うことでそろばんの帳尻を合わせるが、今回は誰もが何の見返りを得ることもできなかったからだ。後醍醐天皇が即位した1318年、世には不平不満が積もりに積もっていた。帝の強固な意志は「建武の中興」を経て南北朝動乱の約半世紀をもたらしてゆく。その歴史をまとめた40巻の膨大な書が皮肉な名の「太平記」だ。新田義貞について熟知しているわけもない筆者は古書街に出たが、漸く探し当てた店の主は、この書を求める客は滅多に来ないと面白がった。南北朝の諍(いさか)いには天皇が絡んでいる、一本道にことが進まない、内部紛争がおこる、勝ち負けが始終逆転するなど、わかりにくい時代なのだろうか。

まず、後醍醐天皇から

後醍醐天皇の父である後宇多天皇は、後醍醐の兄の子の孫を即位させたかったが、幼子のため中継ぎに後醍醐帝を実現させたという。新帝はそんな皇位継承をあやつる鎌倉執権を憎まれたようだ。英邁(えいまい)であられた帝は朝政改革に乗り出し、貨幣経済的な財政の立て直しにも着手され、実績を上げていったが、それは鎌倉との対立を意味してもいた。討幕の密議は身内の寝返りで発覚したが、幕府は天皇を直接咎(とが)めるのを避けた。が、またしても側近からの通報には強硬な姿勢に出た。帝は笠置の山中へと逃れるが捕われ、隠岐の島へと流された。「元弘(げんこう)の変」という。しかし、密かな調略を受け入れていた河内の楠木正成や畿内の反幕勢力は立ち上がり、親王から発せられる令旨はその動きを加速させていった。名和一族の助力を得て脱出した帝は1333年2月、鳥取の伯耆船上山に挙兵される。

鎌倉幕府の滅亡

幕府は東国諸将にも鎮圧を命じるが、船上山攻撃に向かった足利尊氏(高氏)は兵を翻し、鎌倉軍の都の拠点、六波羅を攻めた。一方、楠木軍討伐に加わっていた新田義貞は令旨を受けると、病と称して上州へ帰国し、やがて討幕の狼煙を挙げた。領国、太田から鎌倉へ利根川の上流を渡り、埼玉からほぼ南に武蔵野平野を進む。越後、信濃、甲斐からの同族を加えた新田軍は、所沢の小手指原(こてさしはら)で幕府軍と遭遇、勝敗は容易に決しないが、態勢の立て直しをはかって後退した敵を追って鎌倉街道を府中、分倍河原(ぶばいがわら)へ。ここで思わぬ大敗を喫し、退却した義貞の元に相模から三浦一族が大挙駆けつけた。息を吹き返し、敵の虚を突いて急襲、逆転の大勝利。多摩川を渡り迫った鎌倉は、しかし要害の地。山を開いた狭い切通(きりどうし)は攻めるに難く、守るに容易だ。浜伝いに兵を進めれば、七里ヶ浜の先に突き出た、稲村ケ崎。そこに浜は無いに等しいから多勢は一気に抜けられず、沖に軍船が弓を揃えて常時待ち受ける。伝説の義貞、一世一代の勇姿を太平記から引こう。「義貞、馬より下りたまいて、兜を脱いで海上を遥々と伏し拝み、竜神に向かって祈誓し給ひける。(中略)仰ぎ願わくは内海、外海の竜神八部、臣が忠義を鑑みて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」と、そして黄金作りの太刀を抜いて海中へ投じた。するとその夜、干上がって稲村ケ崎に20丁からの広漠たる砂浜が。横矢を放つ船々は沖合遥かに離れてしまった。北条一族は、市中へなだれ込んだ新田勢に抗う余力既になく、菩提寺の東勝寺に自刃し、1333年5月幕府は滅びた。

分倍河原古戦場跡の碑
(東京都・府中市)

七里ケ浜の磯伝い稲村ヶ崎    名将の剣投ぜし古戦場
(鎌倉・七里ケ浜)

新田軍の大将大館宗氏と主従11人を葬ったといわれる墓
十一人塚(鎌倉・稲村ケ崎)

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新田義貞の生い立ち

群馬の最南東部の太田は、栃木の最南西部の足利と接している。源氏の嫡流から分かれた新田、足利の両族は領国の隣接する、すべてが似た存在だった。北条得宗から経済、精神両面で圧迫を受け、苦しみ続けていたのもまた、同様だった。両者が相前後して反幕の兵を挙げたのは、相応のやむを得ぬ事情があったのだ。が、ともに幕府御家人でありながら、家格は足利が相当上だったし、無位無官の新田義貞に比し、足利尊氏は従五位上、治部大輔と有位有官だったことが武家としての人気に差を生じさせたといえそうだ。1300年頃生まれた新田源氏の当主、家督を継いだばかりの小太郎義貞は尊氏より5歳ほど年長だが、一族は狭い所領を分け合って生きていて、小豪族の集まりの長といった存在だったのかもしれない。上毛かるたに「雷と空っ風、義理人情」とあるまま、義貞の実直、一本気な性格はその短い人生の行動に表れていよう。
人質だった尊氏の嫡男、4歳の千寿王(後の足利二代将軍義詮)は父蜂起の報に鎌倉を脱出し、討幕軍に加わっていて陥落後、別の寺に陣を構えた。5月に六波羅を落とした尊氏は、相前後して兵を挙げた義貞に助力していたのだ。分倍河原の三浦一族も足利に近しい武家で、尊氏からの示唆があったと考えられている。尊氏は側近の細川氏を下向させ、鎌倉支配を固めようとした。足利勢と小競り合いを演じながらも事後処理と賞罰の裁きに当たっていた義貞は、全面的な衝突を避けて上洛。が、両者への恩賞は国司への任官は別としても、尊氏は帝の名から「尊」の一字を頂いて従三位に、義貞へは従四位上だったから、尊氏の功がより認められたこととなろう。

「建武の中興」は成ったが

後醍醐帝は都へ戻られると、光厳天皇を廃し、皇位継承をすべて自らの直系に限らせたから、宮中内にも不平不満は多かったと想像できる。領国統治の形態は基本的に継承したものの、幕府討伐の論功行賞は不公平で、性急な諸制度の改革は、寺社をはじめ貴族たちまでもの既得権を侵害するものだった。訴訟が相次ぎ、それらへの対応の拙劣さもまた、新政権の求心力を急速に失わせていった。そんな折、前得宗、北条高時の遺児、時行が信濃に挙兵し鎌倉は陥落、尊氏の弟、直義(ただよし)は西へ敗走した。出陣と征夷大将軍の拝命を願い出るが、勅許の得られない尊氏は独断兵を東へ向け、朝廷は追認する形で彼を征東将軍に任ぜざるを得なかった。三河で直義と合流し、北条軍を打ち破って、鎌倉を奪還した。1335年8月「中先代の乱」という。その後、尊氏は再三の帰京命令を無視して鎌倉に留まり、軍に従った武将たちに恩賞を振舞った。さながら「幕府」の再現だった。

新田、足利の争い

尊氏は朝廷に向けて義貞を誹謗し、その征伐を求めるが、帝は逆に義貞を総大将に任じ、親王を授けて足利討伐を命じた。さらに、陸奥に鎮守府大将軍としてあった北畠顕家の大軍が東上開始との報に、躁鬱的な気質を持つ尊氏は、隠居の意を漏らして寺に籠るが直義劣勢が伝えられるや、意を翻して兵を率い箱根、竹ノ下に義貞軍を破り、京へ進軍する。帝は比叡山に逃れるが、やがて到着した北畠に加勢された新田、楠木連合軍は尊氏を都から追い落とした。何とか入京したい尊氏だが摂津の各所で義貞に敗れ、1336年2月、播磨から西へ退かざるを得なかった。しかし九州では尊氏に従う士族が多く、大軍を組織し得て再度都をめざした。光厳上皇から一連の行動の正当性を認める院宣を得、さらに多くの諸将も従えて海陸双方から押し寄せる。播磨の豪族、赤松氏は官軍側だったのだが朝廷、義貞の不用意な領国支配の沙汰で敵に回してしまっていた。赤松円心の城を囲んだ義貞はこれを攻めあぐねていたから、福山城が落ちると兵を摂津、兵庫まで引かざるを得なかった。播磨への出陣が、妻となした匂当内侍(こうとうのないし)との別離を厭い、また病を得て大幅に遅れ、情勢を悪化させたともいわれ、このあたり義貞への風当たりは強い。

(2015/12/02)