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坂本龍馬と彼を支えた女性たち その1 |わたしの歴史人物探訪

はじめに

「龍馬立位」          写真提供:坂本龍馬記念館

手元に司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』1975年版文庫本の全8巻がある。今回は、「坂本龍馬(りょうま)は何を為したのか」をお伝えしながら、この小説に登場する女性の中の2人も少しだけ紹介しよう。

土佐藩は保守色が濃く、藩主山内家譜代家臣と長宗我部の家来の末裔「郷士」の身分差は甚だ厳しかった。裕福とはいえ郷士の家の次男に生まれた龍馬が、閉ざされた境遇を脱しようとすれば剣の腕を磨く他なく、江戸「北辰一刀流」道場に入門する。時の思想「尊皇・攘夷」を身にまとい、帰った故郷で「土佐勤王党」に属したが、逼塞(ひっそく)する状況は少しも変わらなかった。

ついに決心し、脱藩の禁を犯して戻った江戸で幕府軍艦奉行並勝海舟と出会ったことが彼を歴史の表舞台へ押し出してゆく。四条河原町「近江屋」で襲われ、33歳で亡くなった龍馬が八面六臂の活躍を見せるのは、それからの「若き晩年」5年間ほどに過ぎない。

船を学ぶ

龍馬の抜群の理解力と、想像力の豊かさ、旺盛な好奇心に喜ぶ勝は、龍馬に操船を教えただけでなく、世界の中における「日本」とその日本はどうあるべきかを説き、国務を担う幕府の実態を伝えた。私営ともいうべき「海軍操練所」を神戸に開いた勝は、諸国から200人ほど集まった書生たちの長に、包容力に富む彼を据えただけでなく、運営資金調達交渉役として越前藩主 松平春嶽に引き合わせるなど、幕臣だけでない広い人脈構築までを助けたのだった。

政情は激しく動く。天皇周辺から追い落とされ「池田屋事件」でまた多くの人材を失った長州藩は1864年7月、復帰嘆願を掲げ2,000人余の軍勢で京を取り囲み、ついに「蛤御門の変」が起こる。塾から何人かが脱走してこれらの騒動に加わっていたことから、幕府内での批判勢力は勝を咎めて失脚させ、操練所はわずか1年で閉鎖される。江戸召還を受けた勝は後事を薩摩藩の西郷に託した。龍馬は藩に利する取引を薩摩に提案でき、それに西郷は応じると見通す勝は、慧眼(けいがん)の持ち主だった。

勝と龍馬の別れに際して、を小説から引こう。

「『お前を一人前の艦長に仕立てあげた俺だが、恩に着なくていいぜ。他日、海上でわしは幕府軍艦をひきいてお前さんを討つかも知れねえ。そのときは、そっちも艦隊を自由自在にきりまわして、存分にやりな』(勝)と、龍馬はだまっていたが、やがて涙が噴くようにあふれ出て、始末におえなくなった。有史以来、これほどの師匠をもった者があるか、と思った」

2人がこの後会うことはなかった。

亀山社中と薩長同盟

薩摩藩からの後ろ盾と資金援助を約束された龍馬は帆船を入手し、同志を率いて貿易港、長崎の小高い亀山に「社中」を設立した。彼が並の才人であったなら、ここから船を駆使して大いに交易し、日本海運、総合商社の創始者としての名を残したであろう。

しかし、屋台骨の腐った幕府でも薩摩、長州の二大藩が一致協力しない限り倒せないと読む龍馬は、高杉晋作が政権を奪還し、長州藩が倒幕へ舵を切ったと聞くや下関へ急行する。薩摩藩を代行して亀山社中が購入する軍艦、銃器、弾薬を、軍装備を急ぎたくとも輸入のままならない長州藩に横流しする大がかりな商いを持ちかけたのだ。

これは単なる商売ではない。京の政変以降、薩摩と長州は犬猿の仲で、特に被害者側の長州になまじな話し合いでの関係修復工作は困難だろうが、実利をもたらされれば恨みも少しは和らぎ相互信頼の芽は期待できよう。

彼は下関、長崎とまるで行商人のように働きはじめ、やがて長州藩代表、桂小五郎も京へ潜入する。船の故障で遅れて入洛した龍馬は、長州征伐の総指揮を執るべく、将軍が大坂城に到着しているにも関わらず交渉が全く進んでいないのを怒った。

しかし、薩摩藩に屈辱を受け続けてきた長州側から話を切り出せない桂は「帰国して力及ばずとも一戦あるのみ」と悲痛な覚悟を語る。薩摩藩邸に走り、西郷に詰め寄った龍馬は理屈を言わない。ただ「長州が可哀そうではないか」。

そしてついに「薩長同盟」は成った。

(次回へ続く)

(2016/07/14)