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「総力戦体制と日雇い労働者」(3) |「総力戦体制と日雇い労働者」

日雇い労働者の子ども、学校に通う

大阪の実業家の尽力と世間の人びとの寄附金で私立夜学校として開校し、のちに大阪市に移管された※徳風小学校は長いあいだ浪速区にありましたが、1938年、釜ヶ崎の地に新校舎を建設して移転してきます(西成区甲岸町12番地・現萩之茶屋2丁目9-1 記念碑が遺っています)。

釜ヶ崎に移転してきたとき、徳風小学校は大阪市立徳風勤労学校と校名変更していました。
勤労学校とは授業時間よりも作業時間に重きを置くカリキュラムをもつもので、実質的に勤労動員を基本としていました。

そうした性格の公立の小学校が釜ヶ崎に移転してきたことは、日雇い労働者の子どもは勉学よりも労働するのが当たり前という、発想だったからにほかなりません。

現に、徳風勤労学校がまとめた学校概要には、釜ヶ崎を「貧民窟」と表現して、日雇い労働者の日常生活がいかに体たらくなものであるかを書き連ねています。
しかし、実際は町会などが存在していました。

※徳風小学校(後の萩之茶屋小学校):久保田権四郎と新田長次郎が創立に大きく貢献した学校。
徳風小学校のことは:教育への情熱(4)「学校運営とその後」

(2015/05/08)