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(2)「沖縄民謡にうたわれた恩加島」 |大阪のなかの沖縄

1923年から1930年にかけて沖縄からの海外移民は、当時の沖縄県の人口の1割に及びます。時を同じくして、沖縄から本土への出稼ぎが急増します。
阪神工業地帯への出稼ぎが最も多く、次いで京浜工業地帯です。

那覇港から船に乗って大阪・築港に着いたウチナーンチュ(沖縄人)は、女性は製糸・紡績業の工場労働者として、男性は港で荷降ろし作業や材木のおがくず、鉄くずを売って歩き、やがて次々と建設される材木製造所や製鉄工場で働くようになりました。

所帯をもつようになった持ち家のないウチナーンチュは、埋め立て地だった大正区の一角の湿地帯に、拾ってきた材木を持ち寄ってバラック住宅を建てました。1941年につくられた沖縄民謡「今帰仁天底節(なきじんあみすくぶし)」にもうたわれている「恩加島(おかじま)」です。

沖縄県北部・今帰仁村(なきじんそん)天底(あみすく)出身の女性の薄幸な人生をうたったこの民謡は、大阪で歌い継がれ、歌詞を変えながら沖縄に広まっていった歌です。

1927年に大阪市西淀川区で普久原朝喜(ふくばるちょうき)が設立した丸福レコードに吹きこまれた「今帰仁天底節」の3番は♪大阪恩加島の叔母一人頼て十七、八までや 夢の間に暮らちと、7歳で両親を亡くした主人公の女性が叔母を頼って大阪の北恩加島へやって来て、17、8歳まで暮らしたと歌っています。

ウチナーンチュの集住地域だった北恩加島は戦後に実施された区画整理事業で、現在の平尾、小林町、南恩加島へ移転しました。

丸福レコードに吹きこまれた「今帰仁天底節」は、大阪人権博物館の展示室(ゾーン2)で聴くことができます。

(2014/09/01)