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荊(3)「闘士」 |荊

全国水平社が創立されたあと、水平運動は全国に広がっていきました。西光は全国水平社の幹部となり、各地に演説に出かけていきました。文筆が得意なことを活かして水平運動をわかりやすく解説した文章を書いたりもしました。

水平運動の旗として知られている荊冠旗(けいかんき)を考案したのも西光です。これは、キリストが磔刑(はりつけけい)に処せられたときにかぶせられた荊の冠をあしらったものです。

学生時代に本を読みふけり、画家を目指していた西光の才能は水平運動の中で発揮されていたんですね。

さて、全国水平社は差別した者に反省を迫るいわゆる差別糾弾闘争を進めてたのですが、西光はそれに加えて、差別した者を擁護する警察や宗教者にも鋭い批判をおこないました。また、貧困にあえいでいた部落民の生活を守るために農民組合をつくって小作争議をおこなおうとしたりもしました。

西光はこの頃から、部落差別をなくすには社会主義革命が必要であると考えるようになり、日本共産党に入ります。当時の治安維持法下で禁止されていた政党ということもあり、西光は逮捕され、有罪となって投獄されました。

その後、日本共産党から離れて天皇制を支持することで釈放はされました。しかし、日本国家や軍部に期待を寄せたため、水平社とは対立するようになってしまいます。そして日本と中国が全面戦争を始めると、西光はいち早く戦争を支持したのです。

その背景には、戦争が社会を変え、差別をもなくすことができるという考えがあったのです。そう考えた西光は、民衆を戦争に動員するような活動もおこないました。

やがて全国水平社は戦争の中で消滅することになります。結局、西光の支持した戦争は多くの人びとの命を奪い人権を抑圧するような悲惨なものでしかなかったのです。

戦争は、彼の理想とは真逆の結果を生み出しました。そこに少なからず荷担してしまった現実を前に戦後、西光はどのような活動をしたのでしょうか?

(2013/07/01)