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荊(4)「反戦」 |荊

1945年8月、アジアを侵略した日本は戦争に敗れました。

西光は戦争を支持していた自分を恥じ、強い反省をおこないました。そして自殺を考え、実行に移そうとしたと言われています。彼はこれ以前にも何度か自殺を考えたことがあるようです。結構、繊細な人だったんですね。

さて戦後日本は一旦、連合国の支配下に入ります。そして民主化の進行によって、現在の日本国憲法が制定されました。これを機に、日本のあらゆる制度が変わっていきます。

農地改革によって、農民の生活は改善されました。教育基本法の制定によって、子どもにも教育を受ける権利が保障されるようにもなりました。

しかし、そうこうしているうちにアメリカとソ連の対立が激しくなり朝鮮戦争が起こります。大きな戦争が終わったばかりであるにもかかわらず、アジア情勢は再び不安定なものになっていきます。このころと同時期に、日本はアメリカと同盟関係を結び実質的には軍隊である自衛隊を設置しました。西光が悔やんだ戦争は終わることがなかったのです。

そこで西光は、和栄政策によって和栄運動を始めるようになります。和栄政策・運動とは西光が独自に考えついたもので、自衛隊のような軍事力ではなく、科学技術の力によって世界平和に貢献しようとするものでした。

このときに、西光が大きな影響を受けたのが、インド独立の父と言われた非暴力・不服従のガンジーでした。ガンジーは植民地解放運動、人権運動の分野において人びとに大きな影響を与えましたが、西光も例に漏れずその中の一人だったのでしょう。

西光は、和栄政策・運動を広めるためにパンフレットを発行し、部落解放同盟にも取り上げるよう働きかけました。また、国際社会で訴えるためにたびたび国際連合にも手紙を送ったりしていました。水平運動を担った同志との交流を深めるため荊冠の友の会にも参加したりしました。

一方で西光は、戦後になっても戯曲や小説を書き続けました。これは、和栄政策・運動の資金を作るためでもありますが、小さい頃に抱いた夢を生涯追い続けたということなのかもしれません。

そして、1970年3月20日西光は和歌山県で74年の生涯を終えることになりました。

 

(2013/07/01)