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中国街道は、高麗橋を起点として(当初は大阪城京橋口)、山口県下関を終点とします。
西天満付近を北上して、中津を通り過ぎたあたりの中津川では十三橋が完成するまで渡し船を利用していました。
そこからさらに北西へと向かい、神崎から尼崎を経て西宮に至り、西国街道(山陽道)と合流します。
今からおよそ100年前、大阪湾へ流れ込んでいた中津川を含む3つの分流を一つにする河川の大規模な改良工事によって現在の淀川(新淀川)が完成しました。それからというもの、江戸時代からたびたび繰り返されていた氾濫もほとんどなくなり、洪水に悩まされ続けた人びとは、安堵したのです。
しかし、人工放水路である新淀川を造る際に当時の中津村にあったいくつかの集落が移転させられかつての街道筋のにぎわいが集落とともに水没することになりました。
その中には、光徳寺の周辺にあった集落も含まれていました。光徳寺は、ご存じの方も多いと思いますが、若くして亡くなった画家・佐伯祐三(さえきゆうぞう)の生家です。その祐三と2歳違いの兄・祐正(ゆうしょう)が父の後を継いで第15代光徳寺住職となりました。彼が開設した「光徳寺善隣館」(現:中津学園)での事業は社会福祉(セツルメント※)の先駆けとなりました。
当時の大阪市北部には、貧困家庭も多くありました。寺院や私立の夜学校などで学習をしたり、日々の生活の心の糧を得ている人も多くいたのです。
このように、街道沿いにはさまざまな歴史が秘められています。そんなことを意識しながら通ると、もっと楽しくなるのではないでしょうか。
※金品を与えるような慈善・博愛事業とは違い、地域に入り込んで生活全般を支援するような社会事業やその施設のこと。隣保館を表すこともある。
(2012/11/28)