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【特集】堺市の歴史と人権を学べるスポット(その2)「堺市博物館」 |人権情報

(その2)「堺市博物館」

堺市博物館は、世界最大面積の墳墓であるいわゆる仁徳天皇陵古墳(大山古墳、大仙陵古墳)の南、大仙公園の入り口に位置し、半円形の展示エリアをぐるっと回りながら見学できる1980年開館のユニークな博物館です。
今年10月に45周年を迎えます。
その名の通り地元堺市の歴史を扱う博物館です。

堺市文化観光局博物館学芸課の橘学芸員にご案内いただきました。

 

【古墳時代に見る東アジアとの交流の痕跡】

私の専門が古墳時代(3世紀の半ばぐらいから6~7世紀まで)なので、古墳時代を中心にお話しします。特に大きな古墳が造られたのは5世紀で、当時造られた世界最大の古墳が仁徳天皇陵古墳です。

しかし、歴史は古墳時代から始まるのではありません。その前の弥生時代やさらに前の縄文時代などの有名な遺跡も堺市にはあるのですが、今は世界遺産として注目されていますので、ここでは古墳を中心に展示しています。

展示されている航空写真は堺市の北寄りの写真ですが、ここには44基の古墳があります。
昔の地図を見ると、実はこのエリアには既に無くなってしまったものも含め、もとは100基以上の古墳があったと言われています。これが百舌鳥古墳群で、面積・全長ともに世界1位の仁徳天皇陵古墳と全長世界3位の履中天皇陵古墳があります。ここから東のほうに広がる古墳群は古市古墳群と呼ばれ、全長世界2位の応神天皇陵古墳があります。この2つの古墳群が2019年に世界遺産に登録されました。

航空写真で見ると、大小の多くの古墳がありますが、その中でも仁徳天皇陵古墳は特に大きいということがわかります。大きい古墳は多くの人や材料を使って造られるので、当時の権力者である大王の墓ではないかと言われています。また、この仁徳天皇陵古墳などの大きな古墳の周りに小さな古墳が点在しています。これは大きな古墳は偉い人が、周りの小さな古墳は、偉い人に関係する人が造ったとみられています。このように、古墳の大きさや形が、社会構成を表すのは、日本でみられる特徴的なもので、大変珍しいと言われています。

この5世紀の100年間に多くの巨大な古墳が造られました。仁徳天皇陵古墳は試算では1日2000人が働いて15年8ヵ月くらいかかったと言われています。敵の捕虜を使ったとは思われません。もしよその土地から人を連れてきていたら、その文化の痕跡が多量に見つかるはずですが、何も見つかっていません。地元の人が大小100基の古墳を造っているので、戦争する暇は無いはずで、この時代は平和だったと言われています。

皆さん、古墳からよく見つかるものとして何を思い浮かべるでしょう。
古墳時代というのは3世紀半ばぐらいから6世紀まで。その最初の頃、4世紀半ばまでは大規模な古墳は奈良県に多く見られます。4世紀半ばごろまでに造られた古墳からは、呪術的な力、マジカルな力を示すものとして、鏡が多く出土しています。その後、4世紀終わりごろから、古墳の埋葬物の流行が変わっていきます。このころできた古墳からは、朝鮮半島から伝わってきた鉄製品、権力・武力を示す武器、冑、甲などの武具が多く出土しました。
このように朝鮮半島とのつながりを示すとともに、それらの武具が普及していたことを示しています。またそれが鉄製品であることは、鉄が大量にあったことを示します。既に大陸との活発な交流があり、多くの鉄または鉄製品が渡ってきました。そして、自らそれらを造ることができるようになりました。このように鉄が大量にあったからこそ、古墳に大量に入れることができたのでしょう。古墳に入れるとその武具は使えなくなるのですからね。

 

【古墳には誰が埋葬されているのか?】

天皇陵古墳とか善右ヱ門山古墳など、古墳の名前は埋められている人の名前を反映しているのでしょうか?
実は古墳の名前は、埋葬されている人とは関係がない場合もあります。履中天皇陵古墳、仁徳天皇陵古墳、反正天皇陵古墳には、その名前の天皇が埋葬されていないとも言われています。例えば、出土している埴輪などを調べた結果、履中天皇陵古墳のほうが仁徳天皇陵古墳より古いということが分かっています。履中天皇は仁徳天皇の息子なので、矛盾しています。そのため今では履中天皇陵古墳に履中天皇が埋葬されていると考える研究者は少ないようです。どうしてこういうことになったかと言いますと、平安時代(西暦900年代)に書かれた「延喜式」という書物の中に百舌鳥耳原中陵は仁徳天皇、南陵は履中天皇、などと記した記述があり、それに合わせて比較的大きな古墳にあてたものが名前の由来になっています。しかし百舌鳥古墳群には多くの古墳があり、北の古墳などと言われても、本当はどの古墳を示すのか確証はありません。さらに延喜式自体は古墳が造られて500年経ってから書かれたもので、どこまで正確なのか難しいところがあります。古墳の調査は、考古学的な調査と文献の調査を照らし合わせながら進める必要があるのです。

今のお墓とは違い、古墳を調べても埋葬された人の名前は出てこないことが多いのです。墓誌銘が出てこない。善右ヱ門山古墳というと、善右ヱ門さんのところの山のこと。孫太夫山古墳というと、孫太夫さんの山。その古墳が造られたよりももっと後の時代の土地の持ち主の名前がつけられています。遺跡の名前は、土地の地名を付けるのが考古学の原則です。古墳は盛り上がっているので、昔から○○山などの名前や地域の名前などがついています。そのため、孫太夫山古墳などの名前になります。

次に、古墳を発掘すると一番多く出てくるのは埴輪です。埴輪は古墳の周りに立てられるので、見つかりやすい。 一方、鉄製品は古墳の内部におさめられたため掘らないと見つからない。埴輪は掘らなくても見つかる。一番よく発見される埴輪は筒形の埴輪です。埴輪のほとんどが筒形です。そのほか冑や鹿などさまざまな埴輪があります。よく教科書で紹介される人形(ひとがた)の埴輪は、百舌鳥古墳群が造られた後の時代のものです。関東で多く見つかりますが、関西では若干少ないようです。埴輪には、いろいろな種類があり、例えば建物の埴輪。これは、おそらく神社のようなものを表しているのでしょう。当時想像だけでこのような建物の埴輪を造るのは難しいと考えられます。実はこの埴輪は扉がくるっと開閉するように造られていて、かなり凝った造りになっています。神社のような神聖な意味合いを持つ建物を塀で囲っていることや、屋根のつくりも今の神社と似た形をしています。魔よけのような意味合いもあったのではないかとも言われています。また、屋根の形は1600年前から変わっていないことがわかります。(撮影禁止なので、写真を撮れないのが残念です。ぜひ見に行ってください。)

 

【仁徳天皇陵古墳の発掘】

仁徳天皇陵古墳から発見された石棺(復元)

次に展示しているのは、仁徳天皇陵古墳から発見されたと言われている石棺のレプリカです。明治5年に当時の堺県を治めていた知事が「古墳が鳥の糞で汚いから掃除しよう」と発言し、掃除をしているといろいろなものが見つかったので絵を描かせて、埋め戻したということです。
展示されている図面はその時にたまたま見つかった石室と石棺を描いたものです。結構きっちりと描かれたもので部屋の構造や石棺の大きさなどが、極めて正確に記録されています。この石室と石棺は前方後円墳の方形の中段から見つかった非常に珍しいものです。そもそも前方後円墳は、円の部分に偉い人が埋葬され、方形の部分はもともと円墳に渡るための部分が大きくなって、円の部分に埋葬されている偉い人をお祀りする場所と言われています。

ちなみに、日本独特と言われる前方後円墳は全国に広がっていくのですが、これは大和政権の勢力範囲の広がりと重なると言われています。前方後円墳という呼び方は江戸時代に名付けられたもので、牛車の形を模して名付けたと言われます。方形=牛が引く棒と見て「前方」、偉い人が乗るのは丸い部分だから「後円」だと。高さはもともと後円部の部分が高く造られていたのですが、5世紀ごろになると高さはほぼ同じになります。そして、仁徳天皇陵古墳は方形の部分から石室と石棺が見つかったのです。なので、最も偉い人(後円部部分に埋葬されている?)に準じる人ではないかと言われています。
丸い後円墳に埋葬されている偉い人に近い人、家族か部下などではないかと考えられます。仁徳天皇陵古墳には3~4人ほどが埋葬されているという研究者もいます。ちゃんと大きな棺を造って埋められていることから、殉死では無いと考えられています。殉死ならもっと多くの人が埋められていると思います。見つかった石棺は、埋め戻されて今も仁徳天皇陵古墳にあります。ただ記録が曖昧なため、どのあたりにあるのかよくわかっていません。石棺のほかに、金色の甲冑とか刀とか、ガラスの容器などが出たと記録されています。

石棺にある取っ手のような部分は、石棺を引っ張る縄を引っかけるためのもので、あとから付けたものではなくひとつの大きな石を削って造ったものです。石は兵庫県の高砂市の近くで産出される竜山石(たつやまいし)で造られていると考えられています。石棺の赤い色は、あとから塗られたものと思われます。石室などは魔除けなどのためか、赤く塗られていることが多いのです。そのため石棺も赤く塗られたと考えられています。

ちなみに、今の方針は、古墳が壊されるのであれば、掘らない。皆さん、天皇陵が掘れない、研究に協力的ではないとおっしゃる方もいますが、天皇陵だから掘らないというわけではありません。今掘ってしまうと失われてしまう情報が多いのです。都市開発などにより壊されることが避けられない場合、保護のための調査が必要など特別な理由がなければ掘らないほうが良い。将来、掘らなくても内部の情報がわかる技術ができるかもしれないし、壊されることになれば、先ほどの大塚山古墳のように、金属製品などが出土すると保存に莫大な費用が掛かってしまうのです。だから、掘らずに将来のために残しておくことが大事なのです。いろいろな遺跡があるので、周りの発掘から進めていくこともありますので、直接発掘するしか手段がないというわけではないのです。(※2021年10月、宮内庁は、仁徳天皇陵古墳の堤の発掘を発表したが、これは護岸工事に先立つ遺跡保護のためとのこと。)(※2025年3月7日、戦後初の学会関係者の立ち入り調査が行われた。)

 

【朝鮮半島から伝わる文化】

仁徳天皇陵古墳から出土した馬形埴輪(復元)

縄文時代末期以降、稲作が朝鮮半島から伝わりますが、古墳時代には朝鮮半島からやってきたものが大きく5つあります。
鉄、馬、調理、須恵器、渡来人です。それぞれ後の日本の生活に欠かせないものが伝わってきました。古代の文明開化という学者もいます。当時、鉄は日本ではとれず、朝鮮半島からしか手に入れることができなかった。弥生時代は鉄は多くありませんが、5世紀以降は多くなっています。馬も多くやってくる。馬と一緒に馬の育成法や道具類も伝わりました。当時朝鮮半島の戦乱を避けて日本にやってきた人びとが馬を連れてきて馬を伝えたのだと言われています。

伝わった中で面白いのは、調理する方法です。それまでの炉に代わるかまどが伝わるのですが、かまどはすごく熱効率が高いので、より調理もしやすくなったのではないでしょうか。

また、使う土器も変わります。それまでは焚火の低い温度で焼いた土器しかありませんでした。これは水が漏れやすいという欠点がありました。これに対して窯で高温で焼き上げる灰色の須恵器とその製法が伝わり、ガラス質の硬い器、大きなカメを作ることができるようになりました。水を長期間溜めることができるようになり、発酵させてお酒を造り、長く溜めておいて、よりおいしい酒を造るということができるようになったのかもしれません。ただ、須恵器には弱点があります。直接火にかけると割れるのです。直接火にかける場合は、柔らかい土器を使います。つまり選択肢が増えたということですね。須恵器を使った調理器としては蒸し器も伝わり、蒸し料理ができるようになります。須恵器は、堺市の南区あたりが全国有数の生産地で、当時の文化の中心地だったと考えられています。この地のやり方を日本中が真似していく、これがステータスになり、東北、九州にまで広がります。日本書紀にも当時の須恵器の産地の中心にあった「陶荒田神社」という神社の名前が出てきます。

 

【堺市博物館の取材を終えて】

堺市博物館を訪れて、弥生時代から古墳時代にかけて大陸・朝鮮半島との交流が活発に行われていたことを学びました。日本の文化の礎には、大陸から文化・文明を伝えた人びとの交流があったと改めて知ることができました。ここには、古墳に関するものの他に、堺の伝統産業でもある鉄砲や緞通などの展示品があります。鉄砲は、時代が平和になるにつれ、実用性から美術品として、または狩猟などに使われる品としての役割が変わっていく様子が展示品を見てよくわかります。ここでは割愛しますが、堺の歴史を俯瞰できる博物館です。皆さんも一度訪れてみて下さい。

 

堺市博物館  http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/

所在地    大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内

お問合わせ先 TEL:072-245-6201

 

(2025/04/04)