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(2)「障害は不幸か」 |優生思想と私たち

いきなりですが、障害者であるわたしは、ふり返ると、当然いくつもの浮き沈みを経験し、その総体で自分の人生をとらえる視点を身につけてきました。

障害に対する差別やいじめなどが原因で、沈みのどん底を味わったこともありましたが、結果としてそれは永遠に続いたわけではありません。
また、沈みの原因も障害に関わる問題ばかりだったわけではありません。

一方で、とにもかくにもこの障害が核となって、自分自身の社会的な関係や視点が広げられてもきました。

当たり前ですが、人生はその総体であり、その中で障害に関する評価をおこなってきました。生まれてきて、とりあえず現時点でこのような結果を抱きながら、生きている障害者は決して少なくないでしょう。

このように考えると、本当に「不幸」とは何なのでしょうか。
「障害は不幸、かわいそう」と思う人は、障害者の何をみてそのように感じているのでしょうか。

これもリバティだからこそ経験できたことだと思っていますが、仕事を通して多様なマイノリティと関わってきました。
それは、自分がどれだけ固定観念に縛られてきたかという気づきの連続でもあります。
そこで教えられたのは、他者への勝手な評価の前に、問われるべきは自分の価値観や生き方なのだということでした。
優生思想には、その問題が最も端的にあらわれていると思うのですが、みなさんはどう感じますか?

 

(2014/11/04)