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(1)「はばかりながら、墓の話を」 |千日前今昔物語

お墓にまつわること、近世大坂の墓地のお話をします。さて、人口が集中する都市であった近世大坂において、死者の埋葬は大きな問題でした。

大坂三郷周辺には、町を取り囲むように七つの墓地がありました。資料によって、若干の移動がありますが、梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、千日、鳶田の七つの墓地を指すことが多いです。

このなかでも、特に近世の大坂で出た死体の処理を中心的に担っていたのが、かつて千日前にあった火葬場です。千日墓所では、享保20年(1735年)時点の調査で年間8,728名、文化9年(1812年)には、年間7,639名の葬儀がおこなわれていました。平均すれば一日に20人以上です。

千日墓所の成立は、『大坂濫觴(らんしょう)書一件』という資料によると、元和6年(1620年)大坂城下町建設の際に、大坂市中に点在していた墓を下難波村内に一つにまとめたようです。そこを「千日聖」に管理させるとともに、他の墓所は撤去したといいます。

この千日墓所が廃止されたのは近代になってからです。日本社会の体制や制度の変化にともなって、大坂という町も変わっていきます。その過程で、墓所も場所や姿を変えていったのです。そういった意味で、千日前の墓地は城下町大坂の歴史と歩みをともにしたと言うこともできるでしょう。

 

(2014/12/02)