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荊(2)「過酷な差別」 |荊

西光万吉は水平社宣言の起草者であることからもわかるように全国水平社創立の中心人物でした。では、それまで西光はどのような半生を歩んだのでしょうか?

西光万吉とは水平運動を始めてから名乗った名前で、本名は清原一隆といいます。1895年4月17日に奈良県の柏原部落に生まれました。父は西光寺の住職であったことから、のちに西光と名乗ったのです。

小学校の頃は「エタ」や「新平民」といった差別的な言葉を投げかけられる日々が続きました。そんなとき、西光をかばったのが後に全国水平社をともに創立することになる2歳上の阪本清一郎でした。

中学に入っても、厳しい差別にさらされていた西光は次第に学校に行かなくなり、図書館で本を読むようになります。京都の中学校に編入したりもしますが、差別にあう現実は変わりませんでした。

厳しい差別にあうだけの学校に行くのをやめた西光は好きな絵の道に進むことにしました。

最初は洋画家として有名な浅井忠が院長を務める京都の関西美術院で絵を学びはじめます。そこから本格的に絵を学ぶため、東京の太平洋画会研究所に入り、中村不折から日本画を学びます。修行の甲斐あって、二科展などにも入選したといわれています。

西光は画家として将来を期待されていました。しかし、部落民であることが発覚する恐怖は常に西光について回ります。良くしてくれた古美術商、下宿先、さまざまなところで自分の出身に話がおよびそうになると自ら遠ざかるようになっていました。

結局画家になることもあきらめてしまい、ここでも図書館に入り浸るようになります。

そして夢やぶれた西光は、阪本にともなわれて故郷の奈良に帰ってくることになりました。

西光自身は学業も絵の修行も、部落差別によって挫折させられたのです。なので、生きることに希望が持てなくなり、自殺まで考えるようになりました。

しかし、阪本や駒井喜作らと燕会という親睦団体をつくり、部落の生活改善に取り組むようになります。この燕会は、全国水平社創立の母体となる団体だったのです。このように学業も絵も取り上げられた西光は差別解消運動に傾斜していきます。

                                                          大阪人権博物館 研究員より

(2013/06/05)