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在日コリアンのまち(2)「鶴橋」 |在日コリアンのまち

? 時をさかのぼること千数百年前、4世紀初めにいたということになっている仁徳天皇の時代から、7世紀半ばに孝徳天皇が難波宮に遷都した頃にかけて、このあたり一帯は「百済郡」と呼ばれていました。

 百済って、つまり歴史の授業でも出てきた高句麗(コグリョ)、新羅(シルラ)、百済(ペクチェ)という古代朝鮮三国の「百済」です。

 ここには、さまざまな事情から「百済」から渡来した人たちがたくさん住んでいました。在日コリアンの遠い遠い先輩方が住んでいた場所と言ってもいいでしょう。

 いま、生野区は大阪湾から数km内陸にありますが、この当時は、海に面していた土地で、百済郡を横切って流れる「百済川」が「猪飼津(いかいづ)」という港に流れ込んでいました。この「百済川」は、現在の平野川のことです。

 この百済川にかかわるお話が『日本書紀』に書かれています。「仁徳天皇14年(西暦312年)」の段に「冬十一月為橋於猪甘津、即号其所曰小橋」(冬11月、猪甘津=猪飼津に橋を架け、その橋を「小橋」と名付けた)という記述があるのです。

 なぜ、わざわざ橋を架けたことが記されているかというと、この「小橋」こそ日本最古の橋とされているからなのです。そして江戸時代、この近辺にあった「鶴之橋(つるのはし)」こそ「小橋」だと主張されるようになります。

 現在、生野区桃谷3丁目にある「つるのはし跡」を記念する石碑を中心とした一角はきれいに整備されています。

 ちなみに、なぜ「鶴之橋」なのかというと、かつてこのあたりにはたくさんの鶴がやってきていたからです。そしてこれが、生野コリアタウンの最寄り駅で、JR・近鉄・地下鉄の駅名にもなっている「鶴橋」の語源なのです。

 

(2013/05/20)