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(3)「法令への反対一揆」 |「解放令」から140年

明治政府の「賤民」制廃止の動きは、江戸時代からの慣習や習俗に慣れ親しんできた平民たちの反感・反発をまねきました。

それまで村々に行政面で従属していた「穢多」身分の人びとを村ごと独立させて関係を絶とうとする運動(部落分村運動)が、滋賀、京都、奈良などで数多くみられました。
身分が同じになったかつての「穢多」身分の人びと(以下、部落)が戸長などを選出して力関係が逆転でもしたら耐えられない、と多くの人びとが部落との日常的な交際と融和を拒否したことが原因でした。

こうした排除の動きのほかにも、部落の人びとが「傲慢」になっているとか、「増長」しているなどと言いがかりをつけて部落を襲撃する事件が、西日本を中心に各地で起こりました。

例えば、明治4(1871)年10月に起きた兵庫県の一揆には数千人が結集し、1873年5月の岡山を舞台にした一揆では、部落や学校に放火し、部落に詫び状を強要してそれを拒否した場合には放火や殺人までも犯すという残酷なものでした。

なかでも最も参加者が多かったのは同年6月に福岡県北部で発生した一揆で、部落への焼き討ちなどで6万数千人が処罰されたと記録されています。
襲われた部落の庄屋宅の柱や欄間には今でも当時の刀傷が刻み込まれています。

ながく続いた身分制社会の習慣や慣行が明治政府の近代化政策との間にズレをうみ、部落の襲撃(殺害・放火などの暴徒)という悲劇をまねいたのです。

(2012/11/28)