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(5)「熊野街道」 |人権の散歩道

 古来から「蟻の熊野詣」とまで言われた熊野信仰の重要な経路となっていたのが熊野街道です。

 天満橋のたもとにある八軒家浜を出発した街道は紀州街道とほぼ並行に南北に延びていき、聖徳太子ゆかりの四天王寺の西門前を通過します。

 四天王寺からやや南に行ったところに、かつて「長吏」と名乗っていた人びとが集団で住んでいた悲田院の跡地があります。「垣外(かいと)」とも称したこの集落は、大阪市内には他に三カ所(鳶田、道頓堀、天満)ありました。

 このうち、鳶田(とびた)は紀州街道沿いの「釜ヶ崎」の一部で、天満は亀岡街道沿いの与力町、同心の北部に位置していました。また道頓堀は、いまでは日々多くの観光客が訪れていますが、まだ人気の少なかった頃にありました。

 街道沿いにこうした集落を設けることは、往来の人びとの関心を引きつけ、被差別身分への興味をかき立てたことでしょう。

 街道は、平安時代の陰陽師の祖である安倍晴明(あべのせいめい)を祀る神社や万代池を通り、堺市内で紀州街道と交錯します。小栗街道の名でも親しまれたこの街道はやがて、和泉市の被差別部落を通過します。

 この部落ではかつて、雪駄(せった)と称する履き物が数多く製造されていました 多くの住民はこれで生計を立てていたのです。

 街道を往来する人びとの脚のお伴をする雪駄は、竹皮で編んだ表に牛革を裏貼りし、鼻緒をつけた江戸時代の庶民の履き物の代表格でした。旅人の日常にも、被差別部落の生業が役に立っていたのですね。

 さてこれまで見てきたように、昔の街道、今で言うところの幹線道路は被差別民と深い関わりを持っていることがわかります。地図や文献だけではなく、紙と景色を照らし合わせて、実際に歩いてみるともっといろんなことが、わかるかもしれません。

(2012/11/30)