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(3)「太鼓屋又兵衛」 |太鼓で栄えた芦原橋

 この人の出自については、後に書かれた由緒書に書かれています。この由緒書に、平八という人物が出てきます。

 大阪夏の陣が終わって間もない元和二年(1616年)。大阪城代(※)が入城する際、新調した陣太鼓(※)をつくったことで、以降、彼の家は「太鼓屋」を名乗ることが許されたといいます。

 渡辺村(※)ではさまざまな太鼓屋がいろんな屋号を名乗っていて、太鼓屋の○○屋さんと言うのが普通です。でも、「太鼓屋」で通用するのはこの平八家の太鼓屋さんだけだったといいますから、「太鼓屋」といえばそれだけでピンとくる!そんな存在だったことがわかります。

 太鼓屋又兵衛は一人ではありません!江戸時代は一家の主は名前を代々受け継ぐことが普通でした。なので、太鼓屋又兵衛を名乗る人は何人もいたわけです。いまでは、歌舞伎や落語の世界にその名残がありますね。

 そして、この平八の子孫の家の当主が代々「太鼓屋又兵衛」を名乗っていたわけです。

 江戸時代の中頃に跡継ぎがいなかった太鼓屋は、奈良の岩崎村から吉兵衛を養子にむかえます。この人物は商才に恵まれていたようで、それまでの太鼓作りに加えて、さまざまな事業を展開し、莫大な財産を蓄えました。

 文化13年(1816年)に書かれた『世事見聞録』には、70万両ほどの資産家だったと書かれています。これ、現在価値になおすと…なんと、約350億円(1両=約5万円)!伝聞なので多少は大げさに書いている部分があるとしても想像を絶するような資産家だったことは確かなようです。

 ※城代…幕府直轄の大阪城へ、幕府の代理として派遣された
 ※陣太鼓…戦の時、士気を高めたり、合図を送るために打った太鼓
 ※渡辺村…現在のリバティおおさか周辺

(2012/11/28)