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(4)「太鼓屋の繁栄」 |太鼓で栄えた芦原橋

 渡辺村の太鼓屋又兵衛の家に奈良から養子として入り又兵衛を名乗った吉兵衛は商才を発揮し、莫大な財産を築きました。

 彼はそれまでおこなっていた太鼓の売買に加えて、 皮革の商いに目をつけました。そのために各地の皮革を製造する職人のもとを訪れ、数十ヵ所で安く皮を仕入れる契約を結びました。
 
 それまで、大坂渡辺村の皮取引は他所から買い付けた皮を売買することで成り立っていました。この取引を独占していたのが十二軒の「和漢革問屋」(※)。

 流通ルートを完全に押さえられ、他の業者が参入することは容易ではありませんでした。そして、太鼓屋又兵衛家はその十二軒には入っていません。

 そこで又兵衛は問屋を介さないで、革問屋の縄張りに入っていない生産者と直接取引することを考えました。皮の生産者に前金を渡し、期日を決めて原皮の納入を依頼します。こうして原皮仕入と鞣し(なめし※)の工程を押さえていきました。

 原料仕入と製造・加工、製品販売をまとめてしまう手法は、いまの不況下でも業績を伸ばしている企業によく採用されていますよね。

 次第に皮の取引を拡大していった又兵衛は、晩年には大分藩との皮取引を一手に取り仕切るまでになりました。

 太鼓屋又兵衛の家を一気に大きくした彼は、1822年に亡くなったと言われています。しかし、その後を継いだ「又兵衛」たちも取引先を開拓していったのでした——————。

※和漢革問屋…幕府と結びついて特権を持った渡辺村の皮革商人による組合
※鞣し(なめし)…動物の皮を柔らかく耐久性のある状態に変化させる工程。皮はなめさないと、腐敗したり、固くなってしまう。

(2012/11/30)